スポンサーサイト 

[--/--/--] | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | TOP ▲

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

世代の話と『イデオン』が残した終末願望 

[2007/08/04] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 今回は、「この国はどうなっていくんでしょうかね。」にいただいたコメント等に関連して。

戦後の日本を支えていた希望の未来像が片っ端から信じられなくなった時代を生きてるのが今の若い世代(zsphereさん)

 その流れで言うと、私は“希望の未来像”が失われていくのを、リアルタイムで目の当たりに見ていた世代なのかな、と自分のことを思います。それでも、希望を自らのものとしていた時代がわずかにあった分だけでも、絶望を出発点としてきた世代よりは幸せ、と言えるのでしょうかね?

庵野 そうですね。僕らの世代(’60年代前半生まれ)の共通体験はテレビかマンガしかないと思うんですよ。それはしょうがないと思います。

 グダちんさんからいただいたトラバで、庵野さんが「僕らには”魔法の箱”の中にしか語るものがない」って言ってるのは、そのとおりだったと思います。ここで言う“僕らの世代”は、やっぱり“我々の世代”ではないのかもしれませんね。(私のお気に入り?の)「われわれ」と「ぼく」と「ニュータイプ」の話じゃないけど、なるほどテレビを見ていたのは、あの頃すでに個々の“ボク”だったのだよなぁと、ふと思いました。ともかく“魔法の箱”から一方的に流れてくるものを、一人一人の場所で受け止めるだけの“僕らの世代”は、全共闘世代やフォーク世代に比べ、たしかに情けない、と私は感じていたように思います。

 私の個人的アニメ史の中での“絶望”の極北というのは、やっぱり『イデオン』(1980年)だったなと思うんです。どんな“希望”を抱いてみても、人は自らの業を乗り越えることはできない――この生きものたちは、一度滅んでやり直すしかない、というのは、それでも再生の可能性に思いをいたしていた、と見るべきなのでしょうか。
 ですが、もっと言うと私の若い時代は、せめてそうして滅びることを、かなり切実に希求していたとも思えます。なのに、希望の未来も来なかった代わりに、あれほど願った終末も世界に訪れはしないまま、日々だけが過ぎていきました。(だからといって某カルト宗教のように、自ら世界を滅ぼそうなどとは思いませんでしたけど。)
 私にとっての『Zガンダム』(1985年)とは、個人的には、だから「あー、結局こうやってだらだらと続いていってしまうんだ」という、どうしようもない諦観とともに思い出されるタイミングの作品であり。『イデオン』抜きでガンダムの流れだけを語っても、あまり私の体感には馴染まないものにしかならないんですね。そうした意味で、『逆襲のシャア』(1988年)っていうのは、とりわけシャアの行動原理のところで、あの終末願望を前提に持たない人には話が通じない部分があるだろうな、と。で、それをアムロが阻止したってことも、私には凄いことだったんですよ。なのに、その次は、『F91』(1991年)だったでしょう? 「あー、それでもまた、だらだらと続いていってしまうのかヨ」っていうね…。

「道を示すべき大人は沈黙し、平和と豊かさの中で僕らは何かを求め続けていた」

 そうですね。しののめさんのご指摘のとおり、『ガンダムX』の頃(1996年)には、たしかに私もまた、もう大人のはずでした。

80年代前半のアニメには確かに大人が居た、でも85年のΖで大人をやってくれない大人が描かれて、今ではアニメに大人が殆ど居ないような気がする。そんなことを考えてしまいました。たかがアニメですけれども、「されどアニメ」という言葉で育った世代ですし。

 客観視すると、まったく言われるとおりです。私はそのころ何を考えていたんだろう?来なかった終末を、まだ待っていたんだろうか?
 今にしてようやく分かってきたことは、どうやら世界はなかなか一気に滅びてくれるものではなく、けれど、ひどく緩慢に滅び続けているものらしいという、そんなことでしょうか。(今でも世界が一瞬で滅びてしまう可能性というのは、決してなくなったわけではないはずなんですが、どうしてこう現実感のないものになってしまったのか。)

 「今の若い人の気持ちを自分たちが若い頃の経験で推し量ってはいけない」のはそれとして、私がちゃんとした「大人をやって」こなかったことの理由を考えていくと、そういう終末願望のようなものの決着がついていないということは伝えておきたいなぁと思いました。
 ただ私には、社会が若者を喰い物にしはじめたのは、わりと最近のことのように体感されていて、それは若者に無理解な高齢者が若者を喰っているのではなくて、若者を含めた社会全体が、少しでも弱い部分を見つけては、互いに喰いあっている状況なのかな、と感じています。
 希望はない。終末も来ない。その中でサバイバルするために行動し始めようとする気持ちを、私も支持します。でも、それは互いに喰い物にしあうことでしかないのでしょうかね。平和と豊かさの中で“終末”ではない何かを求め続けるのは、やはり“僕ら”であって、“我々”ではない。「われわれ」という気分を少しでも知ってしまっている私には、はじめから「ぼくら」でしかなかった世代の絶望は、どうしても分からない部分があるんでしょうかね?

関連記事

コメント

>

なるほどね。なんか納得感があるのは同じ世代だからなのかなぁ。
イデオンが残したトラウマは大きいし、Zガンダムに感じたどうしようもない諦観ってのも同じ。
そうなんだよなぁ。

>

んー。私は僕らではなくて「ぼく」でしかないと言う人な気がします。
何も信じなくてもいいと思いますし。
1000年前から世も末だといってたんですから。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/933-88f53066

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。