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ABC理論? 

[2007/06/24] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 lakissさんが「アルバート・エリスのABC理論」というのを紹介しておられて、ちょっと興味を引かれたので、Wikipediaとか見てみたという、いつもの備忘録。

A=Affairs=出来事
B=Berief(ビリーフ)=考え方、思い込み、信じ込み
C=Consequence=結果、結果として起きる感情や行動

A→B→Cの流れで、起こってしまった出来事は制御できないけれど、Bの部分の考え方、思い込み、信じ込みの部分を変えられれば、Cの部分を変えることができる理論。

 なるほどな、と思います。卑近な例だけども、アニメとかのレビューなんかを見ていても、「C」のところの行動という結果だけを見て、“なんであんなことをするのか、おかしい!”って、自分のモノサシだけで判断して感想を書いている人がけっこう多い気がして。・・・そういう人って、「B」のところの、“そのキャラクターはどうしてそう考える人なのか”が描かれていても、そこはちっとも見ていなかったりするんですよね。
 逆に言うと私なんかは、そこの“どうしてそう考える人なのか”がちゃんと描けてる作品っていうのが、見ていても面白い、と思うことが多いです。アニメだと思って、視聴者をナメた作り方(「…んなもん、誰だってそう思うでしょ、でしょ?」的な)をしているのを見ると、萎えちゃうんですよね。

 Wikipediaでアルバート・モリスを見たら、臨床心理学者で論理療法の創始者と紹介されていました。
 不合理な信念や固定観念に基づいて、例えば「失敗してはならない」「すべての人に愛されなければならない」「世の中は公正でなければならない」などという思いを持っていると、それらが満たされなかったときに悩むことになる、ってことで、なるほど納得。まったく“失敗しない人”なんていないし、“誰からも愛される人”ってのは夢だし、“絶対的な公正さ”ってのは理想の話ですよね。

「~ねばならない」ではなく「~であるにこしたことはない」という文章記述の書き換え

・・・が大事ですよ、と。はい、ここまでは、まさに仰るとおりです。
 ただ何となく、私が「?」と感じるのは、「~であるにこしたことはない」という「合理的信条」は、

  • 事実に基づいている
  • 論理性がある
  • 人生を幸福にする

・・・というのが特徴だっていうところかな。「事実=論理的=幸福」という考え方が、すごくアメリカっぽい(笑)気がして、そこだけはちょっと引いちゃいます。

 この「論理療法」は、「広義の認知療法では最初のもの」ということなんで、じゃあ認知療法って、と続きを読んでみました。

人間は世界のありのままを観ているのではなく、その一部を抽出し、解釈し、帰属させているなど「認知」しているのであって、その認知には必ず個人差があり、客観的な世界そのものとは異なっている。それゆえ、誤解や思い込み、拡大解釈を含んだ結果、自らに不都合な認知をしてしまい、結果として様々な嫌な気分(怒り、悲しみ、混乱、抑うつ)が生じてくると仮定している。

 やっぱり私としては、前半は納得、「それゆえ、」以下が「?」ですね。ただ思うのは、これらは『~療法』ってぐらいで、臨床で、本当に今、心理的に追い詰められちゃってる人に処方されるハウツーだから、こうであってもいいのかな、とも。
 「事実」や「論理」が、必ず人を「幸福」にするなんて、私には思えないんだけど、それじゃ生きていくのにつらすぎるときには、そういう考えは「誤解や思い込み、拡大解釈」なのかもね、ということでも、とりあえずはいいかな。その先は、宗教か哲学の領域だものねぇ。

 とにかく、「認知には必ず個人差があり、客観的な世界そのものとは異なっている」ぐらいのことは、あまり賢からぬ自分なりにも持っていないと、何でも白黒はっきりさせたい人に出会うたびに、極端な話、生きているのがつらくなっちゃうような気がしました。
 それはそれとして持ちつつも、賢からぬ私なりにほどほどには、「事実」や「論理」が、必ず人を「幸福」にするわけではない、そういうちょっとヤバい領域のことも、ときどき少しは考えてみたかったりするという。うん。

 ・・・はて、私というキャラクターは、どうしてこういう考え方をする人なんでしょうね?(苦笑)

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コメント

> 門外漢の戯言

 専門外の話なので適当なこと言いますが。

事実に基づいている
論理性がある
   ↓
人生を幸福にする


 これって、「みんなが冷静に、合理的に物事を判断してれば、状況がこじれる事もなく、結果として幸福でいられる」っていう認識なのかなぁ、とか思いました。
 ゲーム理論みたいな発想なんでしょうね。
 A,B二人の容疑者が共通の秘密を隠していて、その事で尋問されている。
 二人ともが口を閉ざしていれば、ゲームに勝利し二人とも報酬を満額得られる。
 一方、片方がもう片方を告げ口した場合、告げ口した側は半額だけ報酬が手に入り、告げ口された方はビタ一文手に入らない。
 ……というルールで尋問を開始した場合、当然二人とも互いを信じて口を閉ざしていれば最も大きな報酬を得られるわけで。これが論理的で冷静な判断。
 なのに、大抵の場合このルールで尋問を行うと、相手が告げ口するんじゃないかと疑心暗鬼になって、二人とも最後まで黙っているという風には滅多にならないそうです。

 そういう非合理さがなくなれば、「幸福になれる」っていうのがこの論の発想なんじゃないかな、とか。

 もっとも、こんな風に「みんなが理性的であればみんな幸せになれる」って発想は、確かに西洋の人らしい発想だなぁとは思います。
 一神教世界の人らしい、と少し乱暴に言い換えたい欲求も出てきます。秩序ってものを凄く信じてるんだなぁと。
 実際には、互いに理性的な判断をしたのにそれが食い違って不幸になったり、そもそもすべての人に完璧に理性的な判断を期待する考え方に同調できなかったりするんですけどね、私なんかは。

……と、長々と失礼しました。

> 追記

うろ覚えで書いてしまいましたが、
上記で言及しているのは正確には
ゲーム理論というより「囚人のジレンマ」です。

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