でもやっぱ泣いちゃいました〜『ザンボット3』終盤戦。
見ちゃいましたよ。泣いちゃいましたよ。『無敵超人 ザンボット3』最後の1巻(第19話〜23話)。超雑駁な感想メモを書き散らしておきます。
「♪ザザン ザーザザン ザザン ザーザザン・・・」って耳に残ってかなわないなぁって思っていたんですけど、これで当分はご無沙汰かと思ったら寂しいなぁ。(笑)
- 明日への脱出
- 決戦前夜
- 決戦!神ファミリー
- ブッチャー最後の日
- 燃える宇宙
『さらば宇宙戦艦ヤマト』は1978年だから、この作品の翌年なんですよね。倒しても倒しても、さらなる敵が、って展開は、『ザンボット3』のほうが先なんだよなぁ。しかも同じ体当たりでも、ヤマトのようにそれを美化するだけじゃなくて、考えさせられる内容はこっちのほうが深いかもしれないなぁと思いました。
考えてみればバンドックへの反撃のきっかけをつかむのは、“人間爆弾”にされた名もないキャラクターが、それを逆手に取った自爆攻撃からなのでした。って言うと、ヤバ気なんですが、でもたぶん、そこから考え始めなきゃいけないような気がします。いつ、どうやって死ぬのかは自分で決めたいと言っていた、彼の犠牲から最終決戦は始まったとも言えますね。(まあ、その前に中盤の第15話で「海に消えた老将」の前例がありましたけど。)
その上で、神ファミリーの中では最初に体当たりをするのが一族の長であるおじいちゃんであるということにも意味があるんだと思います。体当たりの直前に、敵は必死でかわそうとするので「逃がすかぁ!」と最後の瞬間まで操縦していなければならない必然も描かれますし、この作品で「うわぁ」と思うのは、ぶつかった瞬間に潰れる操縦席あたりをけっこうぎりぎりまでしっかりと描写しているんですよね。体当たりしてでも敵を倒すという痛快感よりも、その恐ろしさのほうが強く印象に残ります。
その戦いの後で、恵子を除く女子どもと香月を、睡眠薬で眠らせてカプセルで地球へ脱出させるという描写が入るんですけど、そんなことなら最初から乗せてこなきゃいいという気もします。でもこれは、おじいちゃんの最期を見て、男たちはみな覚悟を固めたってことなんでしょうね。全員戦闘服(?)になったのもその表れなんでしょうか。何で男の中では香月だけって思うんだけど、香月には生き別れの家族がいて、地上で彼の無事を祈っているっていうのがあるから、だから殺しちゃいけないってことなのかなと思いました。
次に体当たりするのは源五郎お父さんで、やはり家長的な立場にある人間から順に、ということなんだろうかと。
ただ、それに続いた宇宙太と恵子の場合はどうかと思うのは、彼ら少年少女が戦わなきゃいけないことの理由付けでもあるんだろうけど、「すばやい反射神経の動きをコンピュータにストレートに送るにはあの年頃の神経が必要」などと称して、この子たちには“睡眠学習”で意識の隅々まで「戦う人間」の教育をし、戦闘の恐怖を感じないよう暗示までかけてるという設定。それじゃ、ある意味“強化人間”のようなものなんで、そこはどうなのかなぁと。自分の生き方(死に方)を自分で決めたということにそれでなるんだろうか、それは一番やっちゃいけないことなんじゃないんだろうか、とも。
それから、爆発しながら地球に墜落するバンドックの中に残された勝平を助けるために、ビアル一世で押し戻そうとして爆散する叔父二人と兄。これはちょっと、最後を勝平一人にするための作劇上の犠牲っぽくて、あまり納得できませんでした。
「お前の身内のものは戦いのたびに次々と死んでいった。地球を守ると言って。だが、どこの、誰が、ありがたがってくれるんだ。」
「我はガイゾック星人によって作られたコンピュータ・ドール第8号に過ぎない。」
地球は悪い考えに満ち満ちた星だ、憎しみ合い、嘘の付き合い、我が侭な考え、まして仲間同士が殺しあうような生き物が良いとは言えない。
「地球の生き物が頼んだのか?」
「この悪意に満ちた地球にお前たちの行動を分かってくれる生き物が一匹でもいるというのか?」
・・・このあたりは言ってみれば、『逆襲のシャア』なんかと同じ構図なんでしょうね。
「じいちゃん、父ちゃん、ばあちゃん、・・・お、俺たち、やったよね? ちゃんと戦ったんだよね? 宇宙太、恵子、一兄ちゃん、・・・俺たちは、つまらないことなんか、しなかったよな・・・なぁ、アキ?」
世の中にはいろんな富野アニメの見方をする人もいるので、以前に『逆襲のシャア』のラストについて、最後にアクシズが押し戻されたのは、あれは末期のアムロが見た幻想に違いない、という感想を読んだことがあって、それで私は思わず絶句したんですけど。(笑)
その線で行けば、例えば『発動篇』でイデが発動したあとにメシアによる再生が描かれたのも末期のコスモが見た幻影だったり。そして、この『ザンボット3』のラストで勝平が人々に迎えられるのも、末期の勝平が見た幻影だったりするんでしょうか。
あるいはそうなのかもしれない、と言うのか、とにかく考えさせられるラストだったと思います。何ていうか、ただ物語の中の出来事に陶酔して、苦難の果てに「あー、良かった、面白いアニメだった」というだけで終わるんじゃないという。そういうことなんだろうな、と思いました。
咀嚼するのにはもう少し時間がかかる気もしますが。(って、そんなことばっかり言っていますけど。)いわゆる“ロボットもの”にしたって、昔のものだけあってかなり荒削りで、決して手放しで誉められるような作品ではなかったと思いました。が、その見下されている存在であった中に本気でドラマを入れ込んでみせるという気合はひしひしと感じられ、むしろそれが余って、富野監督としてもいくらかは反省される点もあったのが、この『ザンボット3』という作品だったのではないかと、そんな印象が残りました。











