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今日の危機は何か―『∀ガンダム』の場合。 

[2007/05/14] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

アニメは麻薬か?―『機動戦士ガンダム』の場合。

“民衆”の対義語―『逆襲のシャア』の場合。

 この続きです。h-nishinomaruさんが示された《富野監督が為政者に向けた批判》の内容への疑義について考えてみました。

■今日の危機は何か

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 日本の公共性はどこに? 聖俗と公私のよじれ

 視点を変えて“公共性”ということで、例えばessaさんのこのへんの記事を読ませていただいたんですけど、ここでの本旨である2ちゃんねる論は(失礼ながら)さておかせてもらって、「公―ポリティクス(政治)」、「私―エコノミー(経済)」という話に興味を惹かれました。エコノミーには、選択の余地がない一意の最適解があるが、ポリティクスでは多様性が許容され、利害を離れて全体の利益の為にどうしたらいいか、いろんな方向から一生懸命考える。――現在の日本はエコノミーによるポリティクスの汚染が深刻なような気がしました。
 ここで、「暇人が何の利害も無い所で、全体の為のことを議論すること」の重要性の話から、「平安貴族」という言葉が出てきたところで私はハッとしたんですけど。

アキバで歩いているオタクたちの姿は公家に似ているよ(笑)。きっと10年後、20年後は、オタクが公家的な階層を形成するかもしれない。自分は見たくないけどね(笑)。

・・・っていうような富野監督の不思議な物言いは、もしかしたらそういうことが言いたかったのかな、と。「オタク的想像力を作ったのって高橋留美子と富野由悠季じゃん。 オタクのお母さんとお父さん(笑)。」と善良な市民さんも以前に言っておられましたが、「暇人が何の利害も無い所で、全体の為のことを議論」しても、結局「考えた気になって終わってしまう」ことの“功と罪”を、富野監督ほど自覚している人も少ないのではないかと。

 ところでessaさんの文章から、アレントという人のことを知り、少々難しそうなんですが、もっとその考え方に触れてみたいと思いました。(→ amazon 『人間の条件』ハンナ アレント(1994/10)筑摩書房

  1. 戦争と革命による危機。それにともなう独裁とファシズムの危機。
  2. 大衆社会という危機。すなわち他人に倣った言動をしてしまうという危機。
  3. 消費することだけが文化になっていく危機。何もかも捨てようとする「保存の意志を失った人間生活」の危機。
  4. 世界とは何かということを深く理解しようとしない危機。いいかえれば、世界そのものからも疎外されているという世界疎外の危機。
  5. 人間として何かを作り出し、何かを考え出す基本がわからなくなっているという危機。
  6. 松岡正剛の千夜千冊『人間の条件』ハンナ・アレント

 こうした危機への処方箋として、「法の保証を失って生国から放り出され、国籍喪失という非人間的状態に委ねられた場合の、われわれの生存の基本的恐怖をいやというほど知りつくしたにちがいない」アレントという人は、古代ギリシアにまで遡って“公共性”というものの起源を考えたというのです。「近世以前への退行」どころか、なんと古代ですよ。(笑)――思索というのはそういうものなんじゃないのかなぁ。それは現実逃避ではなくて、「真の政治参加」の呼びかけだというのだけれど。難しそうですが、近々読んでみたいと思います。

 ここでね、戦争と革命による危機(それはプロレタリア云々という話柄にも当然関係するでしょう)だけではなくて、大衆社会という危機も、同時に考えるべき課題として挙げられていて、それが3、4、5の危機にも繋がっていると私は思うんです。
 悪しき為政者をぶっ倒せばいいんだ、と大衆を煽ることもアニメにはできるでしょう、そのほうが麻薬的な多幸感も強いはずです。しかし富野アニメでは、そうした善悪の単純化は繰り返し退けられており、『聖戦士ダンバイン』は典型例だと思いますが、おそらく「世界とは何か」という問いを抱えたままで、戦争を引き起こす為政者と刺し違えるエリート、というカタルシス(まさにギリシア悲劇で言うところの“浄化”です)の構図がしばしば見られました。

ターンAガンダム 1 地球光 ターンAガンダム 2 月光蝶

 で、『∀ガンダム』なんですが、主人公は確かにハイム家の使用人であるロラン・セアックなんですけど、影の主人公はディアナ・ソレル(と、キエル・ハイム)だと思います。民衆(プロレタリア)の一人であるロランと女王(為政者)であるディアナ、そして社会参加を志すインテリゲンツィアだったキエル、という構図は偶然のものではないでしょうね。
 特にキエルはやがてディアナに取って代わっていきますが、スタート時での彼女のインテリ的な立ち位置は、『Vガンダム』でのカテジナさんと同様です。この間で何が違うのかあたりはpsb1981さんの領分のような気がします(笑)が、「世界とは何か」ということを自分の頭で考えるのをやめ、既存の何かを(半ば無理に)信じてしまったときから、カテジナさんは「口ばっかりのエリート」の悲劇に魅入られてしまったんでしょうかね。これに対し、キエルは自らの父を戦乱で亡くしたという私的な利害を離れて全体を考え続けることで、「公的領域」に携わる資格を自らのものとしていくわけです。
 最強の力であるガンダムを操るロランは、選ばれたエリートの力を持つのだけど、同じ力を持つターンXを操るギンガナムが(結局は)「自分に労いの言葉もなしに地球へ降りたこと」を理由に女王に叛いていったのと対照的に、ディアナ(そしてキエル)を信頼し続けます。彼はハイム家の使用人であると同時にディアナの臣下でもあるという立場に苦しみますが、ハイム家の「私的領域」を代表するソシエお嬢さんの命令に盲従はせず、自分のレベルで考えるべきことは考え続けねばならないことに目覚めていったような気がします。
 ディアナもはじめは大きな問題を抱えた為政者で、まさに「高貴なお方は現場をわかってない」がために、現場の暴走を抑えることができない。彼女が「公=聖=いいことを言うけど、役に立たない」君主という属性であることは、グエン・ラインフォードという世俗的権力としての「公」との対比で際立っています。その彼女がキエルと入れ替わることで“現場”を学んでいく過程は、出来すぎているぐらいの寓話ですけれど、最終的にはそれぞれの立場の人間が、学ぶべきことを学び、考えるべきことを考えて、互いの信頼を力として、後先考えないヒステリックな革命(ギンガナム)や、実利の前には手段を選ばない覇権主義(グエン)を退けるわけです。

 ・・・と書いてしまうと、簡単な図式化過ぎるんですけど。悪しき為政者をぶっ倒せばいいんだ、だけでは、実際には今日の危機に対しての有効な処方にはなり得ないわけで。では『∀ガンダム』に答があるかというと、それぞれの立場で学ぶべきことを学び、考えるべきことを自分の頭で考えなさい、ということでしかないかもしれないですけど。

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