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アニメは麻薬か?―『機動戦士ガンダム』の場合。 

[2007/05/13] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

アニスおばさんは、けっして民衆、すなわち無産階級ではないですね。守るべき農地(不動産と生産手段)を所有しているからです。

いつのころから新発売3 - アニメは民衆の阿片である

 直接言及を受けたzsphereさんは、また別の対応をされるかもしれませんが、この間のやり取りに関わり合いのあった私なりに、思ったことを少し。
 h-nishinomaruさんの記事でもっとも重要なのは、現実逃避のエンターテイメントでしかないアニメは、現実の苦しみを紛らすための麻薬のようなものではないのか、という重い問いかけではないかと思いました。

 無産階級とは、「生産手段を持たない人。従って、収入を得る唯一の手段は自らの労働である人々」だというのがマルクスの定義だそうで、なるほど「守るべき農地(不動産と生産手段)」を所有しているアニスおばさんは、プロレタリアではないですね。
 今度は「民衆」をWikipediaで見てみると、「大衆」へと転送されちゃいましたが、ここで言う大衆は、多くの場合、単に「社会の大多数を占める大勢の人々」だそうです。皆がみな借家人ではないにせよ、世間の過半の人はサラリーマンだという気がしますから、「民衆=プロレタリア」と今の日本で言っても、あながち間違いではないようですね。

 ところでアニスおばさんには守るべきものがある。じゃあロランは何を守るために闘っていたんだろうと思って、私はファーストガンダムでのアムロとララァの会話を思い出しました。

「守るべきものがなくて戦ってはいけないのか?」
「それは不自然なのよ」

『機動戦士ガンダム』第41話「光る宇宙」

 守るべき人も守るべきものもないのに何のために闘うのか、という意外な問いかけは、アムロだとて権力者の権力闘争(としての戦争)のためのコマ、一枚の歯車でしかないことを示したとも思うのですが、それを指摘したララァのほうも大同小異で、ただ、僅かな人と人との絆を守るために闘うことが「人の生きる為の真理」であると。
 “家族=《家》から離れることで国家に帰属”した結果についての、これは冷静な現状認識だと思います。ただ同時に、現状認識でしかない、とも言えます。――だからアムロは「では、この僕達の出会いはなんなんだ?」と言います。これは閉塞した現状を打開する可能性を考えるために、ニュータイプという“特別な人と人との絆”を仮定してみせたものだと私は思います。
 ただ、こういう《オカルト》ふうの仮定法を用いたことこそが、《宗教》的にも取られ、現実逃避の《阿片》としても機能しかねない危うさも孕んでいたと思うのですね。従って、h-nishinomaruさんの指摘は《現代の戦争》を舞台にしたファーストガンダムにこそ向けられるべきものです。

 では胡散臭いニュータイプなど出てこなければよかったという、(よくある)意見が正しいのでしょうか。――私はアニメがエンターテイメントであろうとする限りは、「精神に作用し、酩酊・多幸感・幻覚などをもたらす」麻薬になる危険性からは逃れられないと思います。(依存性も高いですしね。)ただ、酩酊・多幸感・幻覚などをもたらすことだけを目的としてしまうから濫用なのだと思うのですね。
 この場合に、その表現は現状認識に基づいているから、などということは何の免罪符にもならないと思います。(富野監督の押井守批判などは、これだと思います。)
 薬物とは薬効を認識して、明確な目的を持って処方されるべきものです。マルクスが宗教を阿片に喩えたのは、(おそらく、とりわけ中世以後のヨーロッパ的社会では)宗教がしばしば戦時中の覚せい剤のような目的でしか処方されないことを言いたかったのでしょう。
 繰り返しますが、富野監督はこうしたことにきわめて自覚的な人だと私は思っています。だから「人の革新」の可能性についての考察を喚起したニュータイプという仮定法が、あの時代の中で『機動戦士ガンダム』という作品をただの戦場エンターテイメントに終わらせないためには必要だったのだと思うのです。

 薬効は、常に充分に作用するとは限らず、また予期し得なかった副作用の生じる場合もあります。症状の変化に応じて、投与すべき内容も変化するでしょう。
 「いつのころから新発売3 - 《ターンエーの癒し》=近世以前への退行」でh-nishinomaruさんが示された、富野アニメで描かれる戦争の質が変わってきている、という事実は、まさにその反映だと思います。

 今日は本当は、「カオスの縁 ――無節操日記 -  ガンダムと家とか、あと色々」でzsphereさんが示された、「ニュータイプとか人類の革新とか、そんな問題は地球の端っこで大根洗っているおばちゃんにとっては、どうでもいい話」というほうの話題を、“無産階級”という話題提供から膨らませて考えてみたかったんですが、長くなっちゃったんで、続きはまた今度に。(笑)

追記: 続きはこちらです。

“民衆”の対義語―『逆襲のシャア』の場合。

今日の危機は何か―『∀ガンダム』の場合。

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> カニ光線、ビーッ

「搾取」という言葉を聞くと、あまり印象のよくない人が多いのではないでしょうか?

個人的にマルクスを評価している部分は「剰余価値説」の部分ですね。分かりやすく(?)いうと、価値はどのようにして生み出されているかの仕組みの一端をについて触れているものです(世の経済が、等価の価値の交換で成り立っているとするなら、新たな価値など生まれようもありません)。

一般の財・サービスの話ですが、
入手する際払う価値(お金)を「交換価値」といいます。
そして、実際に使用することで生み出される価値(効用、うれしさ、満足)を「使用価値」といいます。

無産階級という人々が唯一持っている生産手段は「労働力」のみです(「身体が資本」とはよく言ったものです)。

資本家(生産手段の持ち主)は、「労働力」という財を対価を払って手に入れます。
で、「労働力」を「使用する」ことで
生み出される価値は、「労働力の交換価値(賃金)」よりも大きいわけです。

ここで、(「労働によって生み出された価値」-「労働力の交換価値」)が剰余価値であり、資本家の取り分です。これを資本家が得ることを「搾取」というのですね。

資本主義の社会においては資本家が搾取するのは正当な行為です。共産主義の場合、生産手段の私有がないことになっていますから、生み出された剰余価値を労働者すべてに分配する必要があります。

*ちなみに労働力の交換価値(賃金)は、「労働力の再生産(再び働けるようになる)に必要な価値」です。ひどい社会なら食事(最低限必要なカロリー)と睡眠の場の維持に必要な分、ある程度全うな社会なら生存権の保証(健康で文化的な最低限度の生活レベル)に必要なだけの価値、でしょうね。

人がもの(財・サービス)を買うときの基準は、払った額(交換価値)以上の満足(使用価値)を得られるか(期待できるか)、どうかです(労働力においてもその構造は変わらないわけです)。

ただね、剰余価値説のいってることにも個人的には妙に感じている部分があって、あれ、生産手段の使用価値(生産手段を使用することで生み出す価値)についてあまりきちんと言及してないんじゃない?

まあ、厳密に言えば「搾取」という概念は労働者に対するものだけではなく、土地とかに対しても使われるらしく「(生産手段)からも搾取する」というべきなのでしょう。

>

イデオンの登場人物は全て失った純粋なプロレタリアという事で。失うことで希望を守ったというか。

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