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“戦争”を描くことは神聖にして“方便”にすべからず? 

[2007/05/09] | 随想系 | トラックバック(1) | コメント(2) | TOP ▲

 ちょっとタイトルは挑発的過ぎますが。(笑)

いつのころから新発売3 - 戦争を方便にする戦後派への反感

 こちらで私が書いたコメントへのお答をいただいたのですが、お返事が例によって長くなったので、こちらから失礼します。
 “方便”については、「元は仏教用語」とh-nishinomaruさんの仰っておられるとおりだと思います。非常にリスキーなことをやっているという自覚を、富野さんは強く持っておられると、私は思っています。
 アニメで戦争を描く意味というのは、どこにあるのでしょうか。実務的な意味での“方便”ではなく、「元は仏教用語」という指摘にも耐える“方便”は、(生と死が常に背中合わせの)人間という存在の、極端に分かりやすい例示でしかないんじゃないでしょうかね。

 それよりも、最初にコメントをさせていただいたエントリー(《ターンエーの癒し》=近世以前への退行)では、富野アニメで描かれる戦争の質が変わってきている、という指摘のほうが、実は興味深いと思っていたのでした。
 人間を描くための“方便”として“現代の戦争”を見つめていくと、リアルな人間というものがどこにいるのか、次第に見えなくなってくるんだと思うんですね。つまり、ひとりのパイロットでしかないアムロは、歯車の一枚でしかない。――『機動戦士ガンダム』では、そこに“人間”のいる物語を成立させるために、例えば“ニュータイプ”などという、また別の方便が必要になったのではなかったかと私は思います。
 しかし、《現代の戦争》を描くために、理想を交えたそうした人間像を描いたことは、では不謹慎ではなかったのか?という反問も浮かんできます。

 「戦争を描くこと」と「人間を描くこと」の、《手段》と《目的》の関係(鶏が先か卵が先か)とか、考えるべき内容は、はじめるときりがないぐらいに多くあると思います。が、h-nishinomaruさんのお書きになっている中にあるような、戦後派的な「正義」の危うさを描こうとすることに関しては、見ていてイヤになるぐらい富野さんは自覚的な人だと『ザンボット3』などを眺めていても思うので、話の方向が変なほうに行ってしまったかな、とコメントの仕方が不用意だったことをお詫びしたいと思います。

 富野アニメが描く戦争が、現代から近世以前に退行しているのではないかという指摘は、戦争の側に軸足を置いて人間を見つめるか、人間の側に軸足を置いて戦争を見つめるか、という視座のシフトの問題であって、「退行」という言い方には馴染まないのではないかと私は感じます。
 翻って言うと、人間性のある(まだあった)戦争というのは近世以前のようにしかならず、現代戦の中に人間性を見出すことは著しく困難(敢えてそれを描くのは、しばしば思惑あっての嘘)だと言うことが、富野アニメの系譜から如実に見えてしまうのは、それだけでも興味深いことではないでしょうか。

 h-nishinomaruさんは「ファースト・ガンダムに限っていえば、真摯に《現代の戦争》を活写しようとした、オカルト性の皆無な、すぐれてリアルなアニメだと、思っています」と追記されています。たぶんTV版のことでしょう。ニュータイプみたいな“オカルト風味”の薄いTV版を支持する人が多いのは私も承知していますが、現代戦のリアリティを追求するだけなら、(例えば押井守の『パトレイバー2』のように)人間性の不在をとことん浮かび上がらせるほうが、むしろ誠実です。それはそれで、ひとつの表現です。

 ただ私は、戦争という状況を生死一如の人間という存在の典型と考えた場合に、では現代という時代の中にあっては、例えば人間性なるものには、どこにもその居場所はないのかと問わずにはいられなくなるんです。人間性の不在を改めて痛感させられるだけでは物足りなくて、人間の在るべき場所をさまざまな視座から真摯に思索する試みに触れることは、(例え答はいつも見つからなくて、それが単に“検討中のデッサン”のようであっても、)私にとっては無上の喜びなんですね。

 近世以前への退行というのでは、「NHK大河ドラマの戦国時代もの(日本史をモチーフにしたホームドラマ)」と同様ではないかということも言っておられました。近ごろあまり見たこともありませんが、ある意味で「総中流」な現代に通じるホームドラマとして楽しめる、それが現代人の欲しているものなのだとすれば、エンターテイメントとすれば、それでけっこうなんじゃあないでしょうか。
 戦後派の振りかざす「正義」は確かに胡散臭い。その胡散臭さは今さら指摘されるまでもないから、世の中“無党派”だらけというのも仰るとおりだと思います。そんな現代人が、今、真に欲しているものは何なのでしょうかね。(・・・という言い方は、根拠のない希望に支えられたものかもしれないな、とも思いつつ。)

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コメント

>

戦争は利害問題解決手段のひとつでその周辺で語られる正義が方便なんじゃないですか?

2者以上がいて、それぞれの利害が衝突すれば、話し合い(当事者間の交渉)なり、裁判(第3者の視点を交えた解決方法)なり、様々な手段を持ってその問題を解決しようとする、その手段の一つが「戦争」です。

両者が満足する解決案が見つからない場合の(おそらく一番最後に執り行われる)避けるべき手段ではあります。

戦争の人間性がなんだかんだといっておりますが、
これは
近代~現代の戦争が取り扱う規模(利害関係の規模、戦争そのものの規模)が大きくなりすぎて、一個人の利害との関係が見えづらくなっているのが、「人間性がない」(とおっしゃられる)理由だと認識します。

アニメ的なシーンで言えば
「恋人を守る」という台詞があったとして、それを表現するのに
「敵の攻撃から物理的に防御する」ことは直接的でわかりやすいけれども、

恋人の現状すべてを守るという考えに立てば、彼女の知人、彼女の生活を支える全ての仕組み、ひいては人類と我々が住む環境を守っていかなければならない、とどのくらいまでイメージできるか…イメージするにも実際に守れる範囲にも限界がありますよね。

せいぜい、その現状を維持する一部として自分の役割をこなすこと、であろうというところに至るのが少年的な万能感から一歩成長した人なのだろうと思います。

*ここでわかりやすい例を挙げると、ブレンのラッセの台詞とか、コンビニでものを買うのにもどれだけの人間が動いているのか、というたとえを出す富野監督とか。


つまり(なんかもう「つまり」じゃないけど)、
戦争という手段は経済的なものなり感情なり様々な利害を巻き込んでしまっている、ということと

戦争と人間性との関係における一般的な認識の話とはちょっと違うんじゃありません?

*で、大本の
戦争を方便として使う、は
「戦争を描くこと」を方便として使う、
という解釈でよろしいんでしょうか?
前後の文脈まできちんと読んでないのですが

それだと話がまたちょっと違いますので

> >のりのりさん

>戦争を方便として使う、は「戦争を描くこと」を方便として使う、という解釈でよろしいんでしょうか?

はい。その周辺で語られる「正義」のほうは、もはや方便もへったくれもないと思いますけど。

ああ、そうか。私はずっと「戦争を描くこと」と書いてたつもりでしたけど、リンク先の記事のほうは「戦争を方便に」でしたね。
あ、違う、タイトルだ!直します。

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[ガンダム] ガンダムと家とか、あと色々

《ターンエーの癒し》=近世以前への退行 http://d.hatena.ne.jp/h-nishinomaru/20070507/1178523285  個人的に、いささか納得しかねたので、反論がてら私の考えを少し書いてみることにしました。  まず端的に、リンク先の記事における議論のすり替えについて。  戦争と
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