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ロボットアニメ雑感(“あり得なさ”と“本物っぽさ”) 

[2007/04/12] | 随想系 | トラックバック(1) | コメント(4) | TOP ▲

 今日は雑感を少し書いてみます。押井守監督の作品は『ビューティフルドリーマー』以来、あまり見ていなかったのですが、今回、『機動警察パトレイバー the Movie』を見てみたら、面白かったという話から。

 “面白い”ということから言えば、宮崎アニメも面白いですけど、アニメとしての出来はいいんだろうなと思いながら、なぜか私はあまり感想を書く気にならないんですね。私はいわゆる“イカモノ食い”なのかもしれません。
 個人的な好みの話を続けてしまうと、『パトレイバー』の画面は“絵”として美しいと感じたんですが、私がパトレイバーの“アニメ的な動きの面白さ”で思い出すのは、もっぱらロボットバトルのシーンだったりします。(これを“レイアウト主義”と“絵コンテ主義”と言うのかどうかはよく分かりませんが。)

 ところで私は押井さんが、アニメの“本物っぽさ”にこだわるようなところがあることを、不思議なものに感じてしまう人です。なにしろ『マジンガーZ』以来の、年季の入ったロボットアニメファンですので、これはあるいは世代のせいなのかもしれません。が、“巨大ロボット”という“あり得ない”ものが画面狭しと活躍する“ロボットアニメ”は、私だけではなく一定のファンも多いようで、一つのジャンルのようになっています。
 そもそも“あり得ない”対象を描いているロボットものの魅力を“娯楽性”と言ってしまっていいのか、そこもまだよく分かりません。ただ、それと“本物っぽさ”を並立させるという不思議な課題に対し、アニメが意識的に取り組み始めたのは、やっぱり『ガンダム』以来ってことになるんでしょうかね。

 何だか話があっちへ行ったりこっちへ行ったりしますが、“あり得ないもの”を含めながら“本物っぽい”世界観を成立させるには、作品全体が“デフォルメされたものにならざるを得ないのは必定だと私は思うんですね。
 最近の作品を例に挙げて言うと、(ロボットものではありませんが)高橋監督の『いろはにほへと』では、オカルト的な存在である“覇者の首”という“あり得ない”ものが投入されることで、地味になりがちな歴史物が活き活きとした画面になりかけていたと思うのです。それだけに、物語の後半に来て、それが浮いて見えてしまっていたとすれば、それはオカルトが行き過ぎたのではなくて、それを支える(キャラクターを含めた)物語全体のデフォルメされた描写力が付いていけなかったからなのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 別の例で言うと、谷口監督の『コードギアス』が対照的に後半に行くに従って(私にとって)面白くなってきたのは、ロボット同士の戦いなんか、ある意味そっちのけの勢いで、登場人物の心理も行動もデフォルメされたドラマを描き出したからかな、と思っています。あのぐらいぶっ飛んだ物語になってくると、ガウェインぐらいの“あり得ない”スーパーロボが出てくるぐらいで、実はちょうどいい感じなんですね、私の場合。

 それで、これらの現在進行形の作品と並行して、私は富野監督の過去作である『ダンバイン』を見ていたわけなんですが、幸いにして、ほとんど何の先入観も持たずに見ることができたので、時代を超えて、ほぼ横並びのものとして見ることができたんじゃないかと思っています。(まあ週に1話ずつ見るのと、6話まとめてみるのでは、物語が展開するスピード感も違ってしまうという差異はあるんですけど。)
 私は作画にはほとんどこだわりがない人なので、そうした目で見ると、『ダンバイン』はこれらの作品と比肩してもまったく見劣りしない面白い作品でした。以前にも書いたとおり、私は“バイストンウェルもの”に妙な偏見を持っちゃっていたんですが、『ダンバイン』は私の大好きな『イデオン』から『ブレンパワード』までの間に、ごく普通に位置を占めると考えられる、非ガンダムの富野作品らしい良作でした。

 さらにまとまりなく話は暴走しますが、『ダンバイン』と『イデオン』では、どちらにも人の精神を拠りどころにした“あり得ない”エネルギー(“オーラ力”と“イデ”)が出てきます。
 『イデオン』ではソロシップの側だけにイデの力があったのに対し、『ダンバイン』では彼我ともにオーラ力で戦っていました。そしてむしろ『ダンバイン』では、敵側が後先構わずに“あり得ない”力をふるっていたのに対し、シーラ・ラパーナやショウ・ザマは、その力の暴走を如何に抑えるかということに腐心していたことは、興味深い対照ではないかと思われました。

 こう、うだうだと書き連ねてきて、やっと自分が何を思っているのか少し分かったような気がするんですが、私はどうやら、現実には“あり得ない”ものを、まるで実在するものででもあるかのように感じさせてくれる“アニメ”の(特別な?)表現力というものが好きなようです。
 “ロボットアニメ”というのは、それが極端なかたちで表れているから、格別に私の嗜好にあうのかもしれません。ただ、頭でではなく、体感的にその感覚を与えるためには、設定やSF考証の緻密さよりも、作品全体を貫く表現の、バランス感覚とテクニックが必要だと思うのです。
 イデオンの“イデ”の力というのは、頭で考えていくと“トンデモ”に類すものなのかもしれませんが、“全長100mを超える巨大ロボット”が否応なく存在してしまう物語の世界には、そのぐらいの超エネルギーが存在しているほうが、感覚として“自然”なんだと思うんですよ。

 実は、『日本近代文学の起源』(柄谷行人)を先日ようやく読み終わったんですが、これが非常に興味深くて。

風景がいったん目に見えるようになるやいなや、それははじめから外にあるように見える。ひとびとはそのような風景を模写しはじめる。それをリアリズムとよぶならば、実は、それはロマン派的な転倒の中で生じたのである。

(「風景の発見」)

 “ロマン派的な転倒”というのは、例えばそれまではアルプスは単に“邪魔な障害物”でしかなかったのに、ルソーがそこでの自然との合一のすばらしさを描いて以来、人々は「ルソーがみたものをみるために」スイスに殺到しはじめた、というようなことです。
 この論の面白いところはその続きで、リアリズムの本質は、「見なれているために実は見ていないものを見させること」であり、「リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、誰も見ていなかった風景を存在させるのだ。」と言うんですね。
 この本ではしばしば“絵画”の例に喩えながら“文学”のことが語られているんですが、その方法論ゆえに、私には“アニメ”の例に飛躍して読む欲求が抑えられなくて。

 “見なれているために実は見ていないものを見させる”ための手段として、“あり得ない”ものを含めながら全体としてはいかにも“本物っぽく”見える世界観を描き出すことは有効なのかな、とか。難しいことはよく分かんないんですけどね。「雑感を少し」と言いながら、まとまりなく長くなっちゃいました。(お後がよろしいようで・・・。)


追記:

関連→ 「ロボットアニメ」~エンターテイメントの量と質

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[tag] ロボットアニメ fc2ファビコン 押井守 fc2ファビコン いろはにほへと fc2ファビコン コードギアス fc2ファビコン ダンバイン fc2ファビコン イデオン fc2ファビコン

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コメント

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 はじめまして。
 押井守は「風景の創出」にはかなり力を入れている作家であって、そこにおける「本当らしさ」つまりはリアリズムの水準の調整に気を使っているのではないかと思います。ロボットを立たせるのではなく、ロボットの違和感なく存在しうる風景=風景に違和感なく存在しうるロボットを書く、という方向性でしょうか。
 ちなみに「押井守・映像機械論 メカフィリア」を未読でしたらご一読されると宜しいかと思います。押井的こだわりと趣味、方向性がよく見えてくる本なので。
 それでは、これにて失礼いたします。

>

実を言うとSFやファンタジーというジャンルそのものが既に、「異物を取り巻く、もしくは異物のなかにある人間の描写」という前提を背負った表現方法であると思うのです。

ガンダムのテーゼとして宇宙戦艦ヤマトがあると考えれば、アニメと言うそれまで「見慣れていた風景」を「こちら側」に引き寄せた、言ってみれば「異物である事」を意識し始めたのがこの2作品なのだとも言えますね。022さんの視点とはちょっとずれてしまうかも知れないので申し訳ないですけど、デフォルメされた世界の中に「人間」を登場させる機会を初めて持ったのがこれらであるのかも知れないと。その上でもう一度「世界」を見出す機会を、僕らは得たという見方も出来るかもしれません。

ただ、こうして一つのジャンルとして定着すると、そのジャンル独自の「枠」が出来上がると言うか、かつて新しい風景として見出されたものが別の形での「見慣れた風景」になってしまうというサイクルもまた発生します。島本和彦の言う「漫画家的常識」あたりもそれについて言及していますね。燃えよペンだったか吼えよペンだったか。
ちょっとポップミュージックの「進化」つうか「流行」のあり方に似てる気もする。ロックできてグラムなってヘビメタ出来てパンク揺り返して、別のとこでテクノ出来たりとか。それぞれが異端から始まって一つのジャンルになって分化して、世代交替でまた新鮮さを取り戻したり。

あり得ない力、というのは、じつは様々なレベルで実在しているのだと思います。
あー、いや、イデとかオーラ力とかが実在するとかゆう話じゃないですよ。
無人の森で倒れた大樹の音は存在するのか否か、という命題を思い出します。
世界は、少なくとも人間にとっては、異化されるのを待っている存在なのかもしれません。

> うん。

いや、細かい事はよくわかんないんだけども、なんかそんな感じ。
俺はほら、理屈をこね回すのが苦手ですからね。賛意だけを表明します。

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