「ネタ」「ベタ」「メタ」
一部では「ネタ」「ベタ」「メタ」と三つの相関で使用される・・・とのことで、わりとしばしば聞きかじりで使っちゃう言葉なんですけど、実はよく分かってないなぁと反省されて、自分用のメモです。
「(本当の話)現実であるかのように演出された虚構」
意識の問題では「演出されていない本来の意識、感情、欲望」
メタ(meta-)とは、「高次な―」「超―」「―間の」「―を含んだ」「―の後ろの」等の意味の接頭語。
ある対象を記述したものがあり、さらにそれを対象として記述するもの
分かったような、分からないような(笑)。――何で、こんなことを書き出してみようかと思ったかと言いますと・・・。
人は、メタ視点やメタ判断に基づいて自分自身を“操作”出来ないし、よしんばある程度出来たとしても、それはベタな感情・動機と並列的に存在することは出来ても単独で個人の言動を規定することは無い。
だが、「家庭、学校、職場なんて退屈でくだらない」なんて言い(思い)ながら、(ネットでは)時事問題や政治の議論に首を突っ込みたがる「こういう人」は意外と世間に沢山いると思う。今更の話だが、家庭や学校や職場にサークルというのは「政治の最小単位」だ。そこでの人間関係が読めずに上手く立ち振る舞えない人や、その空間をよりよいものに作りかえられなかった人、また、そういう努力をしてこなかった人に、この広い「世の中」の話なんて理解出来るだろうか…?
たまたま、このあたりを読み合わせてしまって、「時事問題や政治の議論」というのは“メタ”だけでも語れてしまうんだろう、対して「家庭や学校や職場にサークル」での人間関係というものなどでは、“ベタ”も必要とされるのかな、と思ったわけなんです。
アニメ(物語)というのは、虚構であり、演出された“ネタ”なんですよね。『Vガンダム』という作品の演出の手際の(ネタとしての)巧拙を考えるのが批評というものかもしれないけど、それをさておいて、そこに含まれる“ベタ”な内容を読み込もうとしているpsb1981さんの視点に、私はいつも「なるほど」と感心しています。
そして“オタク”的なメンタリティの問題点を鋭く考察するシロクマさんの切り口にも、私はいつも唸らせられています。ゲームでは「幾つかの次元においてプレイヤーはキャラクターに対してメタ視点を持たざるを得ないし、また持たなければゲームがゲーム性を保ったゲーム然としては成立しにくい」のに対し、「人生にはパラメータもなければ操作性も無い」ということは、考えれば当たり前のようなことですが、考える価値は充分以上にあるなぁと。
人生をゲームに喩えたがる心性というのは、“戦略的に自らの人生をマネジメントする”ためではなく、“自らの人生の影やドロドロしたものをcut offする為に都合の良いメタ視点に耽溺しているのではないか”という問いかけは、耳が痛いところもあるんだけど、忘れちゃならないポイントだと思いました。
自分というプレイヤーの意思のままにばかりは操作できない、自分というキャラクター。そして往々にして、人生のゲームバランスはひどく悪く、もちろんリセットは効かない。・・・そのあたり、シロクマさんは「本家」のほうでも詳しく書いておられます。(→ なぜオタは自分のステ振りをやらないですか?――プレイヤーの視点の自己管理が出来ないMMO廃人達(汎適所属))
私はここで、虚構であり、演出された“ネタ”であるアニメそれ自身が、“ベタ”な「現実に帰れ」というメッセージを含む場合のパラドックスのことをなんとなく考えているのですが、そりゃあやっぱり「ゲームがゲーム性を保ったゲーム然としては成立しにくい」のも当然だろうなぁと。
物語の受け手に“ベタ”な自分へと引き付けて読ませることを目指して、物語の作り手は“メタ”な戦略性を持ってマネージメントしなきゃならないのだろうということ。けれど、“ベタ”な自分へと引き付けて読ませるためには、メタ戦略だけでいいのかどうかということ。――これはたしかに、ひどく困難な道だと思います。
けれども、「諦めたり傍観したりする人は、おそらくそうでない人よりは成長可能性に開かれていない」というシロクマさんの考えに、私も深く賛同し、また作り手でもないくせに勝手に勇気付けられたような気がした、ということを最後に付け加えておきます。
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