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「メッセージ性」と「ポストモダン」と「Zガンダム」 

[2007/02/23] | 新訳Ζ | トラックバック(2) | コメント(0) | TOP ▲

 “メッセージ性”が強い作家ということで、富野監督などは持ち上げられて、ここまで来ているような気がしますが、私は実は「本当にそうなのかなぁ」と思いながら作品を見ています。何か考えながら作品を作っていることはいつもそうですが、結論を持って、その表現として作品を作るというよりも、まさに作りながら考えて、その思考の振れ幅みたいなものも作品の中にダダ漏れで、そこからどういうメッセージを汲み取るべきなのか、富野ファンの多くでさえもなかなか掴みにくい作家なのではないかと。(そこが好きだったりする私もたぶん、この方のメッセージを、しばしば掴み損なっている一人なのかもしれません。)
 メッセージには“発するもの”と“受けるもの”が常にいるわけですが、ただ出されたものを丸呑みする受け手だけでなくなったことは、たぶん良い方向に時代が進んだのではないかと思います。その半面で、発し手と受け手の境界が曖昧になったことで、どんなメッセージもまっすぐには伝わりにくい、難しい時代なのかもしれないなぁとも思っています。
 富野さんに関して言えば、「何が正しいかハッキリしない世界(ポストモダン)」という時代を、あの年代のおじいちゃんなりに考えていればそうもなろうかというように、私は好意的に受け止めているんですが、これは単に私の嗜好の問題、ひいきの引き倒しかもしれません。(それこそハッキリしない・・・。)
 ところで富野さんのことはさておき、一般論としては、何が正しいのかハッキリしない世界ということを前提にした場合に、メッセージが「正しく」機能することというのはあり得るのでしょうか。また、「正しく」機能しないメッセージには、存在価値はないのでしょうか。(抽象的な話ですみません。)
 実は私には「ポストモダン」ということが、まだすんなりと呑み込めていないところがあります。(20世紀が実態としては19.5世紀だったんじゃないかというような話の延長。)――確かに現代という時代に作られるものは、21世紀を見据えて作られなければならないし、こよみはたしかに21世紀なんですが、現代という時代は全然20世紀を引きずっているし、下手をすれば19世紀の遺物だって平気でその辺にごろごろしている。私にはそういうことが気になっちゃいます。現代を見据えるということは、そういう実態を見据えることでなくてはならないんじゃないかと。

ガンダムというものは自分の中に、要するに荷物として背負わされてしまってから、考え始めたことがあって、戦争はもう現在以後の人類史の中では、絶対にあってはいけないやってはいけない行為になってきたっていうこともわかってきました。Zを作っているくらいまでの頃は、それでも僕自身も人類史にとって戦争というのは必要悪かもしれないとも思っていました。けれども、21世紀というのはそういうふうに歴史をとらえていたら、21世紀中に人類は滅びるかもしれないんです。たかがこれから100年くらいで。

ひびのたわごと 手を尽くして

 これなんか読むと、(富野さんの言うことをどれだけ真に受けるかというのもありますが、)『Zガンダム』ぐらいまでのほうが何が正しいのか間違ってるのかは弱かったのに、今のほうがメッセージははっきりしてきています。でも子犬さんが言っておられるとおり、“ハリウッドや世間を括目させる”などというのは難しいなんてもんじゃないですし、そのメッセージも、以前よりもさらに機能しなくなってきている気がします。
 「そんな人類にしたくはないっていうことを考える次の世代を作りたい」という言い方は、何が正しいのか間違ってるのか、それを知っている大人が子どもに教えるのが「成長」という古臭い教養の考え方に、たしかに聞こえます。ただ自分で「考える」、「そういう人に会いたい」と言うところには、可能性は読み取ってあげてもいいんじゃないかと思うのです。

いや、この際ミもフタもなく言って、80年代後半から90年代前半の一時期、高年齢層が「真面目で難しい人間ドラマをやるアニメ」にウンザリして、メカと萌えだけで別にいいや、となってしまったきっかけを作った張本人が、神経症アニメのZガンダムだった、という見方もできる――が、良い意味でも悪い意味でも、Zガンダムという「TVアニメでここまでギスギスした神経症人間ドラマもあった」という前例あってこそ、エヴァンゲリオンだって出てきたんだろうし(富野監督当人はこの言い方を嫌がるようであるが)、その風下の今のセカイ系もあるわけだろ、という話になる。

電氣アジール日録 - 1985-2005

 『ビューティフルドリーマー』以来の「現実に帰れ」というメッセージが、『エヴァンゲリオン』を経ても機能しないのは、アニメという娯楽的に消費される枠組みの中でやっている限り、ぐるぐる回りを続けるしかないという、やり方の問題なのでしょうか。

 「自分で考えなさい」というメッセージを機能させるためにはどうすればいいのか?まずメッセージの場に注目させるための娯楽性がどうしても不可欠なのか、ということもありますが、そうしておいて冷水をぶっかけてもエヴァは充分に機能しなかったようです。そうなったときに、「ええーっ、そうかなぁー!?」と言わずにいられないようなメッセージを(それが機能するかしないかにこだわらず)投げかけるというやり方で、自分で考えることを促すこともあってもいいような気がします。(その意味では、“ハリウッド”云々は、注目への希求なのか、機能することへの執着なのか、私には判断できません。そうした物言い自体が、あえて反発を買いそうな戦略トークである可能性も含めて。)
 『ポストモダンとは - はてなダイアリー』に、「それを用いる者には、降りかかる危険を未然に防ぐため、相手の教養の成り立ち具合に一応の留意が必要である。…ただし、それ以前に自分の教養の成り立ち具合に留意が必要である。」という注釈があって、冷や汗が出ました(笑)。私の教養レベルでは、どうも満足に考えることも難しいようです。
 ただ、そんな私でも今という時代は、こんな程度ですが何か書いて、自分なりに考えてみようとできるんだから、たしかに自分で成長するための環境は整ってきているのかもしれないですね。だけどこれは、ここでいろんな方と関わりあうことで、やれていることであって、自分ひとりでは一歩も前には進めないかもしれないです。
 新訳Zでは『ZZ』や『V』に比べ、“大人”が主人公を導く構図だから古い、というのが私には分かるようで分からないのはそこです。TV版の『Z』では、導いてくれないシャアにイラついていたカミーユが、劇場版ではあまり依存し過ぎずに自分なりに考えようとしていた気がするんです。むしろ、以前に“上手に関われない”ことを恐れ、みすみす若者を破滅させてしまったのは大人たちのほうだったので。私には、新訳の大人たちは、導けないまでも関わろうとしていたように見えたのですが、それは私も“大人”を拒否できない年齢になってしまったから、そういう感想を持ったんでしょうかね。
 大人だって生きてる限りは成長はしたいんで、“ダメな大人は黙って引っ込んでたほうがまし”と言われたような気がすると、私はちょっぴり寂しいです。――そんな意味では『新訳Z』は、over35推奨の作品でしたかねぇ?(笑)

追記

 一夜明けて読み返してみて、「まずい」と思った部分を大幅に削除しました。ご迷惑かけて申し訳ありません。


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