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「批評」と「感想」(2) 

[2007/02/17] | 随想系 | トラックバック(1) | コメント(1) | TOP ▲

 前の記事の続きですが、悪い癖で、いきなりまた脱線します。

 「アニメージュ初代編集長・尾形英夫さんの功績を讃えて」ということで、宮崎駿さん、鈴木敏夫さん、富野さんの三者三様の弔辞が紹介されていました。宮崎さんの言葉は亡くなった方の人柄に触れた、まさに詩的な弔辞です。

アニメを商売にしていくという仕事を見せられて、これが大人の仕事かと知らされた。そして、アニメも世間を相手にして暮らさせてもらっている芸能なのだとも教えられた。

 それに引き換え、富野監督のこの追悼文は、ずいぶん突き放した物言いのようにも感じられますが、これは富野さんとして、“プロ”に対する最高の賛辞を贈ったのではなかったでしょうか。
 話を前の記事の流れに戻すと、生業とできるかどうかは、世間を相手に商売していく大人の仕事になし得るかにかかっているというのは、たぶん作品の作り手も、編集者も、批評家も、みな同じなのでしょう。プロの作り手や批評家の困難は、独自の思想・主張を持たねばならないのと同時に、世間を相手の商売を成立させねばならないところにあるのではないかと思います。

 先に引いた東浩紀の出ていた鼎談(小学館::ガガガ文庫:ガガガトーク: 東浩紀 - イシイジロウ アーカイブ)で問題とされていたのは、「意見の相互調整システムに抗え!!」ということでした。この鼎談でそこまで語られてはいないようですが、私は世間を気にしなければならないのは、それを生業としているプロだけなので、わざわざこうしたことを言わねばならないというところに、プロとアマの境界が曖昧となっている弊害というのが存在するのではないかという気がしました。「プリミティブな感想はどこにある」という問いは、そのへんを考え合わせていかねばならないのではないかと思うのです。プロではない“普通の人々”が、世間の評価に左右されない自分の意見を持つことが、どんなに難しいことか。

 本当はもう少し、“批評”と“感想”の境界について考えたいと思ったのですが、これについて答は出そうにありません。インターネット時代がもたらした批評の現在は、どうやらプロとセミプロ的なアマとが担っているようですが、世間を相手にしていくスキルは磨くことができても、独自の思想・主張をどう自らの手にしていけばいいのかは難しい問題だと思います。

 試みに具体的な話をしてみると、たとえば、惑星開発委員会は挑発的なパフォーマンスをしかけてくる人たちだ、という印象を持ちながら、あえてAnisopterさんが論点を明らかにしながらリアクションしたことを、私は今でもとても高く評価しています。その一方で、善良な市民さんは自分独自の思想・主張を、挑発的であることを積極的に引き受けながら展開しているという意味で、どちらも正しく“批評”的だと思っています。
 こうした方々に対して、私が書くものは、この方々がお書きになったものへの“感想”に過ぎないのではないかと思うのですが、これは別に卑屈になってそう表明しているわけではなくて、生意気を言えば積極的に“感想”であることを引き受けたいと考えているのです。
 何のために積極的に“感想”であることを引き受けねばならないのかは、自分でもよく分からないのですが、そうすることで、例えばnanariさんが「大切な何か」と呼ばれた名指しがたいものに、私も少しでも近づけるのではないか、そんな思いがあります。あるいは、h-nishinomaruさんの言い方を裏返すと、止めようもなく次々と想起されてしまう元ネタを頭の中から振り払って、目の前にある作品そのものをいかに直視するかという問題なのかもしれません。

尾形さんにとって大事なのは、まず始めることだった。見てくれは気にしない。始めてしまえば、なんとかなる。そこに、尾形さんの超現実主義という面目躍如がある。

 先ほどの弔辞の中で、個人的に一番興味を引かれたのは、実はこの鈴木敏夫さんの書いたものでした。“見てくれ”を気にしないでとにかく始めること、というのが自分向けなように思われたのでしょう。ただ、批評家ぶる“見てくれ”のためにではなく、自分自身のために、私はもう少し言葉を丁寧に選ばねばならないということは考えねばなりません。――“感想”ということは、やっぱり難しいと思わずにはいられません。

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コメント

> 感想と連想

感想は安吾の言葉、連想はフロイトの言葉(自由連想法)です。このふたつはかなりオーバラップするように思います。しかし、自由連想法にもとづいて感想文を書くと、独り合点なものに見えてしまうと思います。にもかかわらず(だからこそ?)、僕は「批評」より「感想」を書きたいと思っています。

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「批評」と「感想」について

半世紀前、作家、坂口安吾は「批評」の党派制を否定し「感想」の登場を期待していた(図書カード:感想家の生れでるために)。しかし、今現在に至るまで「感想」は実現していない。その原因は、もし柄谷行人がいう「近代文学は昭和30年代で終わった」という説を信じれば、
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