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「一人の観客」の「自分の言葉」 

[2007/02/16] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

しかし、このページを見ている君も僕も、すでに観客ではない。

もし君が、あのいわゆるアニメファンではなく、たまたまガンダムの原作本を読みたいなと思ってこの本を買って、このページを開いているなら、もう読むのはやめなさい。・・・もし君が『ガンダム』に関して、あくまで一人の観客でいるのならば、この本はここまでと思うことだ。

岡田斗司夫「あとがき」
小説版『機動戦士ガンダム』(角川スニーカー文庫)第二巻

 以前にも、これを読んだときに感じた違和感について、書いたことがありました。「君と僕は、この富野監督の発言を聞いてもいい世界にいる。すなわちそれはアニメ界というムラだ。」 という言葉を読んだときには当惑しただけでしたが、やがて、やはり私は、“アニメ村の住民ではない”と意識するようになりました。アニメ村の歴史や地誌に多少の関心はあっても、私は決してアニメ村の住民そのものにはなれないし、なりたいと思うべきでもない。

 あまり上手でもない文章をいじりまわして、大して詳しくもないアニメの話を何でブログに書き続けているんだろうかと、自分でもいぶかしく思うことがあります。それこそ寝る間も惜しんでね。(もっと他にやらなきゃいけないこともあるだろうに?)
 たぶん、誰に宛ててでもなく書いているブログだから、書けるんだろう、書きたいんだろうと思います。もちろんインターネットの空間に書いていることは、公共に向けて言葉を発してしまっていることになるんだろうし、誰に宛てたものでもなかった言葉に、誰かが(しばしば的確という以上に)応えてくれるということは、この上なく嬉しいことです。でも私は、自分が観たいアニメを観て感じた、個人的感想を書き留めておきたい、言葉にすることで自分なりに思いを深めてみたいというところからしか、屈折した自意識の疼きを抑えながら下手な文章を書くことができないんですよ。

 これ、別に卑屈になっているわけでも何でもなく、たまに調子に乗っちゃうことはあっても、基本的には自分の立ち位置の低いことぐらいは自覚しているつもりです。これでさえも、階上にいる人から見れば、思い上がった傲慢に聞こえるかもしれないですね。ただ、上から下は手に取るように見えるかもしれないけれど、低いところから階上を背伸びして見てる立場からは、せめてこうとでも思わないとまったく立つ瀬がない。
 こんなブログでもしばしば読んでくださっている皆さんには、私というのがこういう人間だということは、おおむね分かっていただけているんじゃないかという甘えが少しあったのかもしれませんが、たまたま目にした方からは、このたどたどしい文章が批評や考察の真似事に見えてしまうのかもしれないということに思い当たったとき、正直、既に自分にとっては欠くことのできない生活の一部になっているこのブログを閉じようかとさえ、頭に浮かびました。

 インターネットの中に記すブログの空間では、誰に宛てたものでもない言葉が世界に繋がっている。これは本当に不思議なことで、知らず知らずのうちにいろんな方の影響を受けていることを自覚します。階上の人と思っている方と、たまたま親しく言葉を交わさせていただいたりすると、自分が少し立派なものになったかのような勘違いも思わずしてしまいがちです。
 けれど、それで自分が何者であるかを見失ったり、自分の言葉を無くしたりすることだけは、どれだけ警戒しても警戒し足りない危険な場所であるのかもしれないですね。

個別作家研究は、趣味の証明ではない。それは、世界に愛しうるものがあることの証明であり、愛し方の実践なのだ。普遍性への通路は、個別性の内にしか存在しない。だから、愛せ。それが入り口だ。

七里の鼻の小皺 チョコレート代わりに

 たとえば私が富野監督のアニメのことを書くのは、“研究”などというものではなくて、ただ好きで好きで書いているのに過ぎませんが、インターネットの空間というものは、こういう言葉を書ける方とも繋がっていると思うと、この場所で“一人の観客”としての自分の言葉を捜し続けてみたいという勇気が遠くかすかにでも見えてきます。

言葉は旅立つための翼であり、その場に居座って隣人を叩くための道具ではないのだ。

「大切な何か」とは、不在性を名指すための言葉である。

言葉は、雲をつかむための方法なのである。

七里の鼻の小皺 「大切な何か」をめぐって(1)――対象を失った愛の言葉

 今日はnanariさんに、大切に育まれた言葉には、人を感動させる力があるということを教えていただきました。私にはそういう言葉は書けないかもしれないけれど、これからは、せめてもう少し丁寧に、自分の言葉を捜してみようと思いました。見苦しい自意識の疼きを、何とか抑えながら。

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コメント

>

nanariです。もったいない取り上げ方をしていただき、どうにも照れくさいくらいですが、どうもありがとうございます。
「アニメ村」といった狭い領域に対する違和感は、とてもよく分かります。ぼくも、自分の好きなマンガやアニメについて、そうした村意識を超えて語り出したいと思ってきました。そのためには、自分個人の愛、「自分の言葉」を手放さずにおこうと、改めて思います。
自分個人の愛、などといっても、他の人にとっては曖昧な、「雲をつかむような」話かもしれません。しかし、大切な何かがその雲のなかにあるなら、むしろ文字通り、言葉でその雲をつかまえてみたいと思うのです。

> 感想こそ難しい

こんにちは。

しばらく、スケジュールが立て込んでいまして、ブログ記事を書けません。といいながらも過去の記事を転載したりしていますが。いきなり私事でごめんなさい。

それにしても、感想文はとても難しいことです。作家坂口安吾は「批評家」の退屈さを嘆き「感想家」の出現を期待していました。けれど、安吾の没後半世紀を過ぎても「感想」というジャンルは確立していません。やはりゲキムズなのですね。

一週間以内には再開する予定です。その際、拙文にお目通しくだされば光栄です。それでは失礼します。

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