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∀ガンダムは「開き直りの現状肯定」ではない。 

[2007/02/11] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(0) | TOP ▲

 こう鮮やかにやられると、「ぐう」の音も出ないという感じです。まあ、とにかく必読です。

→ PSB1981の日記 - 母は全てを奪う(∀ガンダム/富野由悠季)

∀ガンダムとは何だったのか、といえば全てを許し肯定する母性に包まれて「死と再生」を繰り返しながら、歴史を紡いでゆく人類の物語だ。

 「囚人さんのブログ内に∀ガンダムそのものの記事が意外と少なかった」という指摘をいただいて、痛いところを衝かれたなぁと思っていたところでした。psb1981さんの洞察のとおり、「完成度が高く隙が無いので作品全体に緊張感がある」ので、ターンエーには手が出ない気がしてたんですよ。そしたら、完成度が高く隙が無い記事を読ませていただいて。思わず唸ってしまいました。そして[カテジナ日記]の流れの中で書いてこられたのにも、意表を衝かれました。

ちなみに∀ガンダムのお気に入りキャラはギム・ギンガナム御大将は当然として、ソシエ・ハイムですね。ソシエ=カテジナ=クェス(=カミーユ)。富野作品に出てくる、あのイライラしたティーンエージャーが大好きなんですよ。
PSB1981の日記 - だらだら更新、∀ガンダムとか

・・・という予告を目にしていながら、「ソシエ=カテジナ」という視線があり得たのか、と改めて驚かされました。

特に怖いのがキエル・ハイム。彼女の母親であるハイム夫人も怖い人でしたから、そういう家系なんでしょう。妹のソシエはあまり怖くありません。
PSB1981の日記 - 本当は怖い∀ガンダム)

・・・とも書いておられましたね。キエルが怖くてソシエが怖くないということは、カテジナさんは怖くなくて、本当に怖いのはシャクティだったりするんでしょうか。うーむ…。でも何となく分かるような気もします。(笑)

 「“死と再生”を繰り返しながら、歴史をつむいでゆく」というのは、言葉を変えて言うと“輪廻”なのではないかと思います。ぬるい私は未入手なのですが、ターンエー制作の前年に当たる1998年に出版された『イデオンという伝説』には、「“リング・オブ・イデオン”は無理だから“リング・オブ・ガンダム”という名称でイデオンみたいな輪廻の物語をやりたい」という主旨の富野発言が載っていると聞いて、読みたいなぁと思っていたところでした。(→ ヒゲカーニバル別館・不定期日記 「イデオン」と「ターンエー」
 イデオンにまで話が繋がると私は個人的に嬉しいのですが(笑)、“死と再生の繰り返し”を輪廻と読むと、東洋的な思想だと感じます。

文明の後退した父性なき地上で(ある意味幼いまま)生きる人々を肯定的に描いた∀ガンダムはある意味、開き直りの現状肯定ギリギリ一歩手前だ。

 ここがポイントですよね!

 (h-nishinomaruさんも繰り返し強調していましたが、)先ごろのメディア芸術祭シンポジウムでの発言を見ても、富野さんの原点にはアメリカへの屈折した思いがあった気がします。

僕がこの仕事につくことができたのは『鉄腕アトム』というマンガです。まだ戦争に負けた空気感の漂うなかで読んだこのマンガのアメリカナイズした素晴らしさ、それを日本人が描けてるというのは本当にカルチャーショックでした。
日本の表現力 イベントレポート・シンポジウム メディア芸術って何?

 ただ、それは一人、富野由悠季という人だけの問題ではないんじゃないかと思うのですね。文明は無限に進歩し続けるというのは、日本人がイメージするところのアメリカ的合理主義の思想のような気がします。(アメリカ人全部がそうではないでしょう。しかし先進国といわれる国では、現代人の多くがそう信じているものだという気はします。)

 母系社会というのは、農耕民族に多いんだそうです。母なる自然に抱かれるというイメージは、非西欧的な感じがしますよね。そういう思想的な変遷があるんだろうと私は思うんですよ。(その間に激しい葛藤もあったんだろうと。)

刻が未来へすすむと 誰がきめたんだ
(『ターンAターン』 作詞:井荻麟=富野由悠季)

・・・というのは、驚くべき“開き直り”ではあるかもしれませんが、“現状肯定”とは違うんじゃないでしょうか?文明が無限に進歩すると信じられ始めた産業革命の時代への、あり得ないリセットをしてみせるという荒技には、心底しびれます。ターンエーの冒頭では、これこそアニメならではの夢幻譚のような気がして感銘を受けました。

 母性の象徴であるディアナもまた一人の人間に過ぎなかったこと。ベタに言うと地球の自然を母とみなせば、「母は全てを奪う」以前に、全てを与えたのもまた母でした。ソシエに限らず、誰一人として「母の呪縛」からは逃れられずに循環し続けているのでしょうかね。
 東洋的な思想系では、死というのは母なる自然に還ることのようですね。・・・と言いながら、私も∀ガンダムのラストシーンは背筋が「ぞくぞくぞくーっ…」としました。今思えば、あれは怖かったんだと思います。うまく言えませんが、そのぐらいの衝撃作だったということです。

 ビルドゥングスロマン(自己形成の物語)は、少年が一人前の大人になるやり方(「いかに生くべきか」)は教えてくれるかもしれないけれど、一人前の大人は最後に「どう死を迎えるべきか」を考えなければならない。もしかすると、私は『∀ガンダム』のラストシーンで、そういう未知の(or 忘れてしまっていた、けれど最も重要な)問題を突きつけられていたのかもしれないですね。
 「教養は常に教養主義批判というかたちでしか存在しない」(by 柄谷行人でしたっけ?)というのは、こういう場合に使う言葉でしょうか(笑)。

Ζガンダム以降、キングゲイナーまで「少年が大人の導きで男になる」というビルドゥングスロマンを、正当に描くことに失敗し続けている
(さて次の企画は - Ζガンダム劇場版で見る富野と宮崎の教育観の違い)

・・・という富野批判に反駁する言葉を、psb1981さんのおかげで、私もようやく見つけることができたような気がします。いいものを読ませていただいて、ありがとうございました。


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囚人022さんへ(仮題)

改めて囚人022さんの記事を拝読して、僕の記事で舌足らずなところがあるようなので補足します。 (h-nishinomaruさんも繰り返し強調していましたが、)先ごろのメディア芸術祭シンポジウムでの発言を見ても、富野さんの原点にはアメリカへの屈折した思いがあった気がします

[アニメ]冬彦さん

psb1981さんの『∀ガンダム』をフェミニズム的に解説した記事を読んで思うことは、「あえて見ないことにしていた富野作品のやっかいな側面を、あえて、ここまでわかりやすく示さなくてもなぁ」ということです。 マザーコンプレックスにかんして、現在、あまり言及されませ
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