富野監督と∀ガンダムとタイタニック
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アニメを見て僕らは育ったように富野由悠季と同世代はアメリカ映画を見て育った。彼らはアメリカにつよい思慕を抱いてた。しかしその後冷戦という過程を通じてアメリカは憧れの対象ではなくなってしまった。
しばらくnishinomaruさんにインスパイアされることが続くかもしれないですね。ごめんなさい。
さて『ターンエーガンダム』である。ファーストがソ連とその衛星国間の葛藤を描いた作品とするならば、本作はイギリスとアメリカの葛藤を描いた作品といえる。
こちらの話は、なかなか難しい気がしたのですが、最初のほうの指摘はなるほどなぁと。それで「富野監督と∀ガンダムとタイタニック」という三題噺からの連想を少し。
富野由悠季さん――「ガンダムの富野」は虚像(←リンク先の真ん中あたりです。)
アニメは、売れ筋を追った結果、ぎすぎすして神経質になった。「タイタニック」をご覧なさい。チープなラブロマンスです。でもそこにあるおおらかな部分を人々は支持した。
演出家として、ガンダムを再生できるというカンはある。過去の作品の延長線上にはない世界をつくる。「ブレンパワード」をつくりながら、僕は「ガンダムの富野」と言われる虚像にね、ついに、ついていこうと思ったんです…ホントかな(笑い)。
富野語録 in ∀ガンダム
最近の日本でインド映画のコメディーが受けているのも(「タイタニック」と)同じようにみんなが楽しめるオープン・エンターテインメントだからこそです。そういう映画状況を考えたときに、僕は確実に"「タイタニック」以後"という言い方ができると思いました。映画は、ついにSFXやCGの技術を使いこなしながら、そういう刺激だけに頼らない原理原則のお楽しみという部分を手に入れてきた、と。では、アニメはどうなんだと考えたときに、アニメの場合は実写と違ってすべてを嘘八百のところから積み上げていく世界ですから、その根元を支える設定がなければいけない。ガンダムの場合、それは人型のロボット=モビルスーツなんだから、それを組み込んだ活動大写真をつくればいいんじゃないかと思ったんです。
G-TV 富野由悠季インタビュー
どういうことかというと、つまり言ってみれば、「SFX特技監督のキャメロンが」っていう言い方がありますけれども、まあ「トゥルーライズ」みたいに多少その匂いや気配は出てきているんですけども、スペクタクルの素材を撮りながら、タイタニックで言っちゃえば安手のラブロマンスのストーリーをやっちゃったわけです。
これ、「安手のラブロマンス」と言うんだけれども、この「安手」ってのは実は映画にとっては決して安手のことじゃなくて、かなり僕は上等なことだと思っています。
つまりオンビジネスの観点から見たときに。つまりSFXを使いながら、スペクタクルものの素材を使いながら、実はスペクタクルなんかくそくらえで、ラブロマンスにしてあげた。
あれが要するに映画の場合のエンターテインメントの僕は「キワ」だっていう気がしてきたんです。で、それをキャメロンっていう人がやったっていうあたりがちょっと、本当に見てて、「えっ、何故これが出来たんだ!?」って、凄く不思議だったんですよ。
タイタニックについての話というのは、つまりエンターテイメント論なんだと思うんですけど、それの原風景がゲージュツ的なフランス映画とかじゃなく、娯楽に富んだアメリカ映画なんじゃないのかというのはたぶん言われるとおりかと。
それが『∀ガンダム』以後、なんだかぴたっとはまらない印象があるのは、前に子犬さんが言っていたようなデジタル化のような問題も関係あるような気もする。思慕を抱いているものが、必ずしも体質に合うとは限らないとか、そんなような話にもなるのかな。
私にはちょっと消化しきれない話だけど、一応関連で触れておくと、次のような視点もあります。
metamorphosis 娯楽ではないようなアニメについて
娯楽としてのアニメとは、このような認識の枠組としての物語に関わっている。つまり、そのような枠組にぴったりと収まるような作品が出てきたとき、それは快楽を与えるものになると言える。そうした点で、むしろ、僕が注目したいのは、そのような枠からこぼれ落ちるもののほうである。それは、言うなれば、われわれが目にしたくはないものであり、耳にしたくはないものだと言える。しかし、そうしたものを含んでいるものも、またアニメだと言える。
吉之助流・武士道論・その3:芸能の一回性を考える
芸能の「一回性」というのはもともと祭事的なものです。基本的に「決定的なことがなされて・それで終り」、あとには静寂だけが残って・何も残らない、そういうものが「祭り」の本質です。三島はこれを「花火」と言っております。「決定的なこと」とは言え、芸能のやることは所詮はウソには違いありません。一回性を喪失した芸能は「興行(エンタテイメント)」の要素を持ち始めるのです。つねに「これを繰り返す・再現性をもつ」ということです。
このように祭事と興行との間には質的な・しかも決定的な相違があります。じつは祭事でも興行でもウソを演じていることではまったく同じですから、本当は芸としての高い・低いということはないはずなのです。しかし、どこかに「興行」というものを貶(おとし)める部分があるのかも知れません。それは興行というものが「ウソを確信犯的に繰り返す」ということにあるのかも知れません。(このほかに世俗的な金銭の要素が絡むということが考えられますが、本稿ではこれについては論じません。)
今回は引用ばっかりですみません。そこまで難しく話を膨らませなくてもいいんじゃないかという気もしているんです。
いつのころから新発売: 『伝説巨神イデオン』スリルとサスペンス
それにしても富野氏の世代に共通するアメリカ映画好きと一億玉砕への偏執という特徴はなぜこれほどまでにその前後の世代から誤解されがちなのでしょうか。不思議なくらいです。
この指摘を読んで“サコミズ王物語”と呼ばれた『リーンの翼』のことを思い出してしまいました。私はあれは好きだった!それを、理屈じゃあなくて、私はいったいどう言えばいいんだろうなぁ!?(笑)
| ランキングオンライン |
[2006/12/17
20:13]
| 御大 |
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コメント(4)
コメント
一般的には1stガンダム世界は
第2次世界大戦に例えられているので
こういう認識は何かしらの補足説明が欲しいなと思います。
>のりのりさん すみません
http://ofofofof.blogspot.com/2006/08/blog-post_115565537685359388.html
↑
こちらの話は、とらえどころのポイントが私にはまだつかめていなくて。ただ興味深い視点ではあるなぁと思っております。
大幅に改稿しました。
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