富野監督の思索の展開に思うこと 

[2006/12/12] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(0) | TOP ▲

 昨日は挫折してしまいましたが、今日こそは書いてみたいと思います。(笑)
 yasuakiさんの書かれた「∀ガンダム論 第一章 ガンダムシリーズとニュータイプ論の結論としてのディアナの死」の、冒頭に記された次の一文を読んだだけで、私はその内容に心惹かれるものを感じました。

ガンダムとニュータイプの歴史とは、ある面で、人類がいかにしてエゴを乗り越えるかという歴史であったということができる。


 先日、藤津亮太さんの“「われわれ」と「ぼく」と「ニュータイプ」”という記事を読んだとき、「われわれ」(社会)と「ぼく」(個人)の間に齟齬が生じ始めた時代が生みだしたものが「ニュータイプ」という捉え方に、その両者に引き裂かれた世代だからこそ、私はそれに惹かれたのだろうなと思いました(→関連記事)。「われわれ」と「ぼく」の間の齟齬、それを端的に言ったものが「いかにしてエゴを乗り越えるか」の問題だと思います。
 yasuakiさんは、『逆襲のシャア』→『Zガンダム』→『Vガンダム』→『∀ガンダム』というガンダムシリーズの作品展開の中での富野監督の考え方の変遷をたどってみせてくれています。これで論旨は明快なのですが、ただ『逆襲のシャア』(1988年)→『Zガンダム』(1985年)という逆順になっているところで、多くの読者は戸惑うんじゃないかとも思いました。その点については、『逆襲のシャア』は小説版の『機動戦士ガンダム』(1981年)の結論をアニメでやり直してみせたのではないかという私の私見(→関連記事)も関係あるような気が個人的にしました。
 yasuakiさんはなるべく分かりやすく整理してみせてくれているわけですが、そういう風に実際の表現の中では、富野監督の思索の変遷は、錯綜しながら現れています。(作品の中においても、発言の中においても。)決してなだらかな一本道ではなく、そこには紆余曲折があります。理路整然としたものでなく、ときに以前の発言との激しい矛盾を生じたりしている。トミノスキー(笑)の私には、それこそ監督の思索の真摯さと映るのですが、そこは意見の分かれるところでしょうね。
 「われわれ」の時代から、「ぼく」の時代へという移り変わりと、もう一つ、重要な時代の変化があります。それが「未来に対しての期待観」だと思います。
 私の少年時代(というのは1970年代になりますが)、公害問題なんかも噴出し始めていたはずなんですが高度成長の夢はまだまだ人々の間で信じられていて、21世紀はすばらしい科学文明の時代になっているはずだと思われていました。'60~'70年代のSF映画や漫画、アニメなどに描かれている21世紀像を見てみてくださいよ。すごい夢と希望の世界ですから! 私なんか、そんなのを見せられて育っちゃったんですよ。で、…実際に訪れてみた21世紀の、何たる夢も希望もないことか!(笑)
 その点では、人間(社会と個人の関係)の観察については、たぶん先見の明があった富野監督も、宇宙開発に憧れて育った少年の一人として、科学の可能性への幻想を拭い去るのには人並みに時間がかかったと言えるかもしれないですね。
 そういう二つの時代の大きな流れの間に、たまたま生じた空隙のようなところから見出されたものが“ニュータイプ”というもののような気がします。ただそれが私の世代の少年たちには、(未来への希望が揺らぎ始めた時代を迎えつつあったからこそ、)かえって電撃的に受け入れられて、観念として一人歩きをはじめてしまったような。
 富野監督の真摯なところであり、また不器用なところと言うべきは、その間違いに気付きながらも、制作者として責任を負わねばならないと考えて、yasuakiさんのまとめられたような思索の追究を愚直に続けたところにあるような気がします。


| ランキングオンライン |
関連記事

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/643-63b92636

失われた未来

この投稿は囚人022さんが書かれたつぎの文章[1]に触発されて書きました。(前回のつづきです)

バウワンコ王国とアニマル惑星

この投稿は囚人022さんが書かれたつぎの文章[1]に触発されて書きました。