私信~多少はコミュニケーション論になったかどうか 

[2006/11/27] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 ねもさんから長文のコメントをいただいています。(→ ほしの 鼓動は アイ2-1 2-2
 ここまで長いのでしたら、ねもさんのブログに書いていただいてトラックバックしていただいたほうが、私としては嬉しいのですが、独特なこだわりをお持ちのようなので、そこは尊重いたします。
 同様に私も、このブログに私なりのこだわりがあります。たとえば、(こんな私の駄文ですけれど、)一応は記事として、その都度(当面の対話相手以外の皆様から見ても、)“読み物”になる体裁は保っておきたいということがあります。
 もう一つは、優越感ゲームの場に過ぎない討論掲示板のようなものにはしたくないということ。この対話のはじまりのころにも書いたように、人によって“違う捉え方”というものが存在することを、率直に認められる場としたいのです。(かつてanisopterさんからいただいた「共感か反発かの二択しかないネットなんて貧しすぎる」という言葉は私のブログの宝です。)
 (読み物としてのスタイルを保つため、以下、一般論で話してみますが、)ここで対話をする場合に、当然ですが、私はその方のお考えを正しく理解したいと思っています。しかし、私を含めいくつかの考え方がある場合に、どの考え方が正しいかとか、優れているかとか、そうやってどれか唯一の考え方で合意を形成するということには、あまり関心はありません。
 私が理解をしたいのは、それぞれの考え方の、どこがどう違うのか、その違いはどういうところから来たものなのか、ということです。(そもそも考え方が異なると、同じ言葉を読んでも全然違った意味に受け取ることは多いですので、まず誤解のないように伝えたり、理解したりすることだけでも、大変な困難が伴いますけどね。)
 もう少し言うと、誰彼に関係なく「考え」よりも、むしろ「感じ方」のほうに関心があると言ってもいいかもしれません。ひとつの作品について語る場合であっても、見る人の立場によって違う見え方、感じ方というものがあるということ。つまり、“これが正しい”というものはないというのが、ここでの私の、とりわけ管理人としての立場です。(「僕はこの件では私的には○○だと信じるけれど、世の中にはいろいろな価値観のひとがいるから、公的にはそれが唯一の価値観だとは主張しないよ」という、あれです、あれ。)
 すでにここで私たちは、しばしばその作品の作者の言葉、考え方でさえ、絶対的なものではないという見方に立って、話をしてきていると思います。
 むしろ私などは、作者の言葉どおりに作品がならなかったように見える部分――作者の意図どおりに完成した作品だから感動をするのではなくて、かえって意図が十分に果たされなかった部分に如実に現れている、作者という人のビビッドな感じ方にこそ感動することが、往々にしてあります。
 このような私のものの見方が、普遍的なものだとは、私はちっとも思っていません。なので、同意はしていただかなくても一向構わないのですが、コメントを読ませていただいていると、私の考えについて誤解されている部分があるように思われるので、ちょっと時間をかけて、ねもさんのご意見も読ませていただいて、どこの感じ方が違うのか、どう言葉にすれば、そういう違う見方もあるんだなと、それだけでも伝えることが出来るのか、考えさせてください。
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