スポンサーサイト 

[--/--/--] | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | TOP ▲

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

全能感とは?~『コードギアス』stage7 

[2006/11/25] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 ネット配信で『コードギアス 反逆のルルーシュ』を(ほぼ一週遅れで)見ているんですけど、こまごました感想を書き留めることは、別にいいかなぁという気がだんだんしてきました。各回のあらすじや良質な感想などは、たとえばこちら、「球根栽培法」のCategorie「コードギアス」などを拝見すると、とても充実していると思います。なので、これをもっけの幸いとして、自分の関心あることだけをメモしておくほうがいいということに、ようやく思い至ったという次第。
 今のところ、私のこの作品に対する関心というのは、先の記事にのりのりさんからいただいたコメントに記されているような、“全能感”に関することが最も大きいように思っています。その視点から“SEED”に比べると、設定としての“ギアス”の全能感というのはかなり制限されていて、この作品の全能感に関する部分では、もっぱらルルーシュ君のキャラクター(まさに“若者の特権”なのかあるいは“身の程知らずのたわごと”なのか)に依拠するところが大きいと思います。与えられた能力を、どう使いこなすかということでしょうかね。
 stage7『コーネリアを撃て』は、そういうルルーシュの思い上がりから一敗地にまみれるエピソードだったわけなんですが、まだまだ序盤であって爽快感もなかった代わりに絶望感も微塵もない。あったのは、辛くも死地を脱したルルーシュ君の苦い屈辱感だけだったような。
 “ニュータイプ”と“ギアス”を比べてみると、ギアスが人を支配する能力であることに対し、ニュータイプは世界を洞察する力、ないし超能力的な描かれ方をした面を含めても、人に意思を伝達する能力として描かれていたと思います。この差はかなり大きいと感じます。
 『反逆のルルーシュ』という物語の中で、ギアスの力というのはゲームを構成するために不可欠なキーとなる要素(たぶん“デスノート”とかと同様)に用いられているんだと思いますけど、物語の描き手も、こんなものだけで世界が変えられるとはあんまり思っていないっぽいですよね。

個人がどんなに努力しようが真剣に考えようが行動しようが、早々世界は変わらないという絶望を抜きに、現代を語ることはできないと思うので。(zsphereさんのコメント)


現代人が口で言う絶望なんてたいした絶望ではないのではないかと思うときがあります。絶望を口にしながら、のんきに生きてる奴は多いし。
怖いのは、その緩い絶望で本当に死にいたるものがいることや、逆にそののんきさが本当に取り戻しの出来ない状況に自らを追い込む可能性でしょう。(のりのりさんのコメント)


 どちらにも、「うんうん」と頷きながら、「ううーん…」と唸ってしまいます。(こういう話が出来る人たちがいてくれることに、本当に感謝申し上げつつ。)
 緩い絶望で、世界に関わることをはじめから放棄して、のんきに生きているだけではないのかというのは、自分の胸に手を当てて考えてみると、実に痛い指摘。だからこそ、絶望の淵を覗き込むことさえ億劫であるところに、物語の果たしうる役割があるんだろうと思います。その中で、“もしかしたら世界を変えられるかもしれない”という気にさせるトリックのようなものは、絶望の淵を覗き込むところへ、人を誘うために機能するものなのでしょうか。
 現在進行形の『コードギアス』のような作品について、これまでの作品と比較して言えることはまだ少ないのですが、特別な力の存在が物語に果たしている役割は、同じようなものなのか、異質なのか。私が気になっているのは、主にそんなところです。



| ランキングオンライン |
関連記事

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/616-2bda36d5

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。