『新訳Z』は、あらゆる“~主義”への警鐘では? 

[2006/11/13] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 恋愛の話は無視できない大事なものなのでしょうが、やっぱり難しいものですね。『星の鼓動は愛』のラストを巡って何回か書いてきましたが(→ちょっと間の空いてしまった前回)、年代ばかりではなく、人によって感じ方・考え方というのには、さまざまな差異があるということを実感。この話をはじめたときは、「違う捉え方もあるということで、どこがどう食い違うのかということを探ってみたい」と言っていたわけなんですが、立場が違うと相手の思いを正しく汲み損ねてみたり、考えていることがうまく伝わらなかったりで、反省しきりです。

個人的な見解では、現代の人にとって達成感のある個人体験がもはや恋愛くらいしか思い当たらなくなっていることが、恋愛重視の正体ではないかと思っています。
精神的に満たされるために必要なことというのかな?

ここで私、「恋愛にアップアップ」とか「純愛への憧れ」とか、「愛なんてもっと下世話なものじゃないか」、とか全部ピンとこなくて…


 のりのりさんの、このコメントには、考えさせられました。――これは揚げ足取りではなく、むしろ同意しているのですが、たしかに恋愛を重視すると言いながら、多くの現代の人は恋愛を“個人”体験として達成することで、精神的に満たされようとしているのかもしれません。何が言いたいのかというと、「恋愛とは本来、相手とのやり取りの中で育まれていくものなのでは?」という視点の欠落についてです。
 ただ「ピンとこない」という指摘も頷けます。つまり、“個人”体験として、お互いに自己満足できていれば“ハッピー”(=精神的に満たされている)と思えている人のほうが、むしろ巷には多いということだと思います。――そういう自分なりの折り合いの付け方もあるのでしょう。と言うか、そうやって折り合ってる人のほうが多いんだな、現代は。そこは納得しました。…となると問題は、(ちょっと極論ですが、)“個人”体験ではない恋愛(本気で他者と向き合うコミュニケーション)でなければ満たされないと考える少数者が、無視できない比率で存在するのかどうか、ということなのでしょうか。

「『星の鼓動は愛』のラスト」を「踏み絵」にして、その反応だけで「恋愛至上主義者」とそうでない者を正しく判別できるのでしょうか?


 ねもさんとは、お互いなかなか思いが正しく通じなくて苦しいところですが、すこしずつ互いの立場が分かりあえてきた部分もあるような気がしています。
 私の書き方が悪いんでしょうけど、今まで書いてきたことは「~主義者」とそうでないものを判別しようというのではなくて、それぞれ自分の中で「~主義者」的になっている部分がないか、振り返ってみるきっかけにならないだろうか、という趣旨のつもりでした。

 「恋愛至上主義」という物の定義が、良く判らない。たしかに言われるとおりだと思います。「恋愛至上主義(れんあいしじょうしゅぎ)とは、恋愛を人間における最高の価値と考える思想・思考形態を指す。そのような思想・思考形態をもつ人物を恋愛至上主義者という。」とWikipediaには書かれています。意外なようですが、戦前から既に議論されてきた言葉のようです。(恋愛至上主義への批判は、もっぱらそれが優生学的な思想と結びつきやすいところから展開されてきたようです。)
 Wikipediaが常にバランスの取れた見識とは限りませんが、「恋愛 - Wikipedia」を見ると、「日本では、自分の好きな人と恋愛をして結婚するという恋愛結婚が現れたのは、明治以降の事」とされ、高らかに恋愛至上主義を宣言し、当時の若者に衝撃を与えたのは北村透谷とのことです。

 明治から大正にかけて、文化人の間にはロマン主義の影響や、家制度によるお見合い結婚への反発として、恋愛至上主義が広まったが、恋愛結婚が大衆化するのは戦後になってからである。お見合い結婚でも親の意向にのみもとづいた結婚は忌避されるようになり、夫婦の間の愛情をもった繋がりが強調されていく。
 高度経済成長期以降は、恋愛結婚の大衆化により、恋愛は普通の男女であれば誰でも出来る・すべきものだという風潮が広がった。


 ここまでの経緯は異論の少ないところですが、バブル期以後の「恋愛で消費行動が重視される傾向」あたりからが、近年“オタク”の問題と絡めて議論の多いところだと思います。「マニュアル的な恋愛」「トレンディドラマ」などがその傾向を助長したと言われていますね。

 男性側がどれだけお金を使ったかで愛情の深さを測る風潮が、それまでの社会的規範に反するとして非難されたり、賞賛されたりしたが、これにより「結婚を前提とした一対一の関係」や「純愛」というロマンチック・ラブの規範から逸脱した恋愛関係が若い世代にも広く認知されはじめたという意見もある。


 賞賛?広く認知?というのがなかなか同意しがたいところですが、少なくともそういう議論、あるいはそういう現実もあるというのは本当のことですね。
 ねもさんが、「恋愛感情(好きか嫌い)」をやはり一番かなとしながらも、それだけでなく「経済力(金が有るか無いか)」とか「美的センス」とか「個人の嗜好」とか、いろんな判断基準が実際にはあって、“「恋愛」というワンパラメータの「至上主義」は、本当に現在の主流なのか”と思えてきたと言われるのには、だから私もまったく同感です。

 ここでは恋愛の話ですが、それだけに限らず、今日では社会全般の傾向として、このように多様に「価値観も拡大・拡散してしまっている」からこそ、かえって各個人は“~主義”(あるいは“アンチ~主義”)に固まろうとしがちではないか?そして、それでは“崩壊”を免れ得ないときに、人はどういうしなやかさを持つべきなのか?…というのが、私が今回の『新訳 Zガンダム』に対して考えたいと思っているテーマなのです。
 先日も飯島愛ちゃんに愚痴ってましたが、富野監督は“今の若者の感じ方は分からない”ということは率直に認めてるんで、それは残念ながら私も似たようなところがあります。「若い人への迎合」では堕落。といって、偉ぶって嫌われてもダメ。…というのは、本当に難しいですね。
 「大人の傲慢」という批判は、けっこうツラい。飯島さんとの対談でも思ったのですが、ファンにとっては『ガンダム』でも『Zガンダム』でも、それらはもはや“自分たちのもの”なので、富野監督の作ったものだという思いではないようです。(それもやむを得ないことなんだと思いますが。)

旧約を見なかった(Zの予備知識を知らない)人に、新約をいきなり見せてラストの(カミーユ->ファの気持ちの流れが)自然な物として伝わるか?


 “自然なもの”としては伝わっているはずだと私は思っています。第一部でも、第二部でも、カミーユとファは抱き合ったり、じゃれあったりしてますからね。ただ自然ではあっても、あまりロマンチックな要素がないのは間違いなくて。
 ロマンチックじゃないと達成感が得られない、ドラマにはそういうものが必ずあるはずだ、という観念も、ひとつの“~主義”に類すものではないでしょうか、ということ。そして、何かの主義に殉じてしまうのでない、しなやかさや、あるいはしたたかさというものも、こうした時代を生き抜くためには大事なのかも、ということ。私が『新訳 Zガンダム』に感じて、誰かに伝えたかったことは、そういうことに過ぎないのですが、力がなくて、これ以上うまく表現できないことが残念でなりません。



| ランキングオンライン |
関連記事

コメント

> ほしの 鼓動は アイ 2-1

ほしの 鼓動は アイ

間が開きましたが、富野監督と「純愛」の話の考察続き(その2)です。
後編の前編です。。。(苦笑)

取り敢えず、「『新訳Z』は、あらゆる“~主義”への警鐘では? 」は
見なかったことにして進めます。(笑)


・ラストの作劇論:

> しかし、ここ(カミxファのラストでの描写)で反発を感じてしまうことで、
>自分の中の“恋愛至上主義”があぶりだされるという、
>実はそういう構造になっているんですよね。(囚人022さん)

*****
富野監督発言の
Ζの中で「純愛があぶりだされているかもしれない」事が、劇場版ではっきり
してきた。

これは、意訳すると、
元々、旧約(TV版とか小説版)Zに内包されていた”純愛”が、新約化を進める過程の中で、
明白に表に姿を現して来た。
と言えるかも知れません。

*****
「“恋愛至上主義(純愛)” を、一見” 恋愛至上主義(純愛)”と見せずに、書かれている
事」に、「反発(・不満・不足)を感じる」と「自分の中の“恋愛至上主義(純愛)”があぶりだされる」?

この点についてですが、
● 正しく「自分の中の“恋愛至上主義(純愛)”があぶりだされるという」構造になっているのか?
●「『星の鼓動は愛』のラスト」を「踏み絵」にして、その反応だけで「恋愛至上(純愛)主義者」とそうでない者を正しく判別できるのか?
 という疑問が生じて来る訳です。

これは、
肯定的視点で考えると…、->ロジック的には正しそうです。
否定的視点で考えると…、->恋愛的視点“以外”(例えば作劇論的視点とか)で観た時にはそうでもないかと。

肯定的視点で考えると、ロジック的には正しそうなのですが、何か違和感が残るのです。

そもそも論としては、
『”純愛”を、一見”純愛”と見せずに、書く』という有言が、『星の鼓動は愛』で実行されていたとして、その表現が成功しているのかどうか? という問題も有るのです。

若し、「ラストの(一見”純愛”と見せ無い為の)抱き合いシーン(直接的、肉欲的な愛の描写)があっても、それが実は”純愛”の描写だ。」と言われると、『”純愛”を、一見”純愛”と見せずに、書く』という戯作者としての表現は、富野監督発言から私が富野監督へ期待している表現レベルよりは、かなり低く失望せざるを得ないレベルの物です。富野監督の表現はそんなに安直な物なんでしょうか?

『違和感を探る』
少し整理して考えると、つまりこの違和感を探る作業は「富野監督がインタビューで話していた事」と「富野監督の実際の作劇」と「囚人022さんの論旨」がロジック的に正しく連なっているのか?という事の検証に成る様なんですね。

「“恋愛至上主義(純愛)” を、一見” 恋愛至上主義(純愛)”と見せずに、書かれている
事」に、「反発(・不満・不足)を感じる」と「自分の中の“恋愛至上主義(純愛)”があぶりだされる」?

しかし、この事は、本当は、富野監督が言われている様に
“純愛”がしっかり描かれていれば、一見” 恋愛至上主義(純愛)”と見せずに、書かれているだけで、本質は“恋愛至上主義(純愛)”が描かれている訳で、恋愛至上主義(純愛)者の人であれば(アンチの人こそ?)、そこを敏感に感じとって、逆に満足(反発)されるのではないか…とも思えるんですけど…?。

逆に“純愛”の韻の描写が不十分であれば、一見” 恋愛至上主義(純愛)”と見せずに、書かれていて、更に本質の“恋愛至上主義(純愛)”描写が不十分なので、恋愛至上主義(純愛)者の人に限らず観客は、その不十分さに違和感を感じとって、反発するではないか…とも思えるんですけど…?。

*****
ここまで考えていて、大事な事に思い至った。
富野監督は 「“純愛” を、一見” 純愛”と見せずに書く」 と言われている訳で、カミーユxファのカップルが“純愛”として描かれているとすると、この事は、「カミーユとファの間には“純愛”の定義が成立している必要がある」訳です。

富野監督の発言から、「富野監督の純愛の定義」は、“純愛”=“恋愛(100%の完璧な相思相愛)至上主義”でしたから
富野監督的“純愛”には、(1)「カミーユ発の100%の恋愛感情->宛ファ」と(2)「ファ発100%の恋愛感情->宛カミーユ」の2つは必須条件です。(2)は新約も旧約も満たしていると思います。

他に、世間一般(少なくとも“ねも”定義)的に認知されている定義の(3)『「(a)邪心のない、ひたむきな愛」、「(c)すぐに心変わりしたり忘却されるような愛ではなく、障害を乗り越えて、一途に思い続ける感情」』も満たしている必要があります。
世間一般の人が、“純愛”だと思っていない物を“純愛”だと言って描くのは的外れですよね?

では、(1)は?
富野監督は“純愛”の例で、ロミジュリを取り上げましたから、(3)の「障害を乗り越えて、一途に思い続ける感情」も当然意識
されている筈で、「カミーユ発の100%の恋愛感情->宛ファ」に対して、「魅力的な異性(レコア、エマ、フォウ)の誘惑波状攻撃の連続」とか「ファの魅力を貶める様な働きかけ(そんな描写は無かったけど)」とか様々な外因が降りかかり、揺るぎそうにさせる中をファに対しての思いを貫くという様な韻を踏んでおく必要があるのですが、(現実的には「ファ発100%の恋愛感情->宛カミーユ」に対しても同様な試練があり得るのですが…)旧約ならあった「魅力的な異性の誘惑(?)波状攻撃の連続」も新約では(尺の制約もあって)あっさりとしたものでしたし…。富野監督定義的“純愛”の表現として、ここら辺が表現としては弱くなっている感がするのですがどうでしょう…?

いや、難い。。。 後編の後編へ続く?

> ほしの 鼓動は アイ 2-2

ほしの 鼓動は アイ 2-2

富野監督と「純愛」の話の考察続き(その3)です。
後編の後編です。。。

囚人022さんのペースを乱している張本人の1人かなぁ(^_^;)という自覚は
あるので心苦しいですが、今回で一応球は投げ返せたかなと思います。

*****
『カミーユはファに純愛しているのか?』

“純愛”の定義を(c)の「すぐに心変わりしたり忘却されるような愛ではなく、
障害を乗り越えて、一途に思い続ける感情」とした場合、定義上は「打算や妥協」は
入り込む余地は無いんですよね。

新約で“純愛”を「カミーユxファ」で描くのなら、カミーユがファを選ぶ時に100%->70%等
の妥協というのは、富野監督定義の“純愛”上、あり得ないんじゃないかなと思う訳です。

富野監督の戯作者としての表現技法の自己満足で『”純愛”を、一見”純愛”と見せずに、書く』が
されても観客に”純愛”が解る(伝わる)のかなとも思いますね。観客に伝わらない”純愛”描写に
どれだけの価値があるのか?映画評論家等から表現技法を賞賛されていたらそれはそれで評価に値するのでしょうけど、少なくとも自分的には、”純愛”は第3部の映画チケットを売る為の
取って付けた宣伝文句にしか思えませんでした。

*****
『知らず知らずの間に“主義者”と“純愛”観の見直し』

>知らず知らずの間に“主義者”になっている部分があるのではないか?
>――そのとおりに考える必要はないけれど、(囚人022さん)

知らず知らずの間に“主義者”になっていて(“主義者”であるがゆえに
アップアップしている人は別にして)何か問題があるのかな?とも
思うんですよね。
敢えていうと、これは「主義者否定主義」とでも呼べば良いのでしょうか?

「あらゆる主義(こだわり)の否定」とは「個性(多様化)の放棄」ではないでしょうか?
恋愛にアップアップの原因は、必ずしも男女一人一人の『恋愛(100%の完璧な
相思相愛への憧れ)』だけでは無いとも思いますし、

>わずかでも各自の“純愛”観を振り返ってみるきっかけを提供できたならば、
>それはそれで「表現として成功している」といえるんじゃあないかと
>私は思うのですよ。(囚人022さん)

でも、“純愛”の定義が、富野監督と世間一般(辞書)とで微妙に重ならない
部分もある為に、本来の意図が正しく伝わらない事もある訳ですし、
最初に“純愛”の定義を監督とインタビューの聞き手で確認するところから
始めるべきなんでしょうね。
それと、富野監督は、戯作者として観客に“純愛”を見せたかったんですよね?

*****
『カミーユとファの恋愛ドラマ(作劇手法)について』

>“描写が足りない”のではなく、カミーユとファの恋愛ドラマは“意図的”に少なめに描かれたものではないのか(囚人022さん)

これは当然こういう解釈も有り得ますし、成る程と思いました。
楽しみ方の一つとして、この解釈で読み解くラストという物も面白いと思います。

でも、自分としては、“意図的”に少なめに描いた結果、カミーユとファの恋愛ドラマが
純愛の域に達していないと観客(視聴者)に思われたら、それはやっぱり“作劇論”
としては失敗だったのではないかと思うのです。
“純愛”の代名詞「ロミジュリ」で、ロミオとジュリエットの純愛は、作劇的にはそんなに
小難しい技法を使って描かれてはいないですよね?

Zの新約(中でも「星の鼓動は愛」)を、一般に受け入れられた(ヒットした)“純愛”作品(例えば「タイタニック」とか「冬ソナ」)と比較すれば、“純愛”作品を本当に求めている人からすれば、
そこに“純愛”が描かれていれば、口コミで、評判を知りガンダムとかロボット戦争物とかの形であっても「Zの新約」を観ようという動きが出たかも知れませんが、現実にはそんな事はなかったですよね。

*****
『何の脈絡もなく唐突』なのか?そうでないのか?

>彼らが互いに好ましく思っていることは、既に先刻承知のことなのですよね。(囚人022さん)

旧約も複数回見て、小説も読んで、関連ムック本も読んで、俺ゼータも書いての予備知識、先入観ありありで、 「彼らが互いに好ましく思っていることは、既に先刻承知」 なので、
“新約を先入観や予備知識を極力排除して見てでは無い”ところが問題かも…です。

>これは「何の脈絡もなく唐突」ではないと思います。(囚人022さん)

多くの一見さんが観て、その大半の人が“「何の脈絡もなく唐突」ではない”と思うのであれば、
そうなのかもしれません。が、これは一見さんに感想を訊くしかありません。
自分でも、もう一度そういう観点で見直してとも思っていたのですが…時間が…。

*****
『恋愛とは「ドラマチック」なものじゃなきゃ駄目なのか?』

> ここで問題提起されているのは、「恋愛ってそんなにドラマチックなものじゃなきゃ駄目なの?」とい>うことだと私は考えているのです。そして作者がそういう考えの持ち主であれば、“ドラマチックでない>普通の恋愛”を、まさにそのように表現してみせなくてはなりません。(囚人022さん)

言い換えてみると、「“ドラマチックでない普通の恋愛”を、まさに“ドラマチックでない普通の恋愛”のように表現してみせなくてはなりません。」となるのでしょうか?
でもこれは、富野監督の『”純愛”を、一見”純愛”と見せずに、書く』とは違いませんか?

富野監督は、”純愛”を書くとは言われていますが、“ドラマチックでない普通の恋愛”を書くとは言われていないですよね?

> ――これは物語の長さ(尺)には関係のないことであり、(囚人022さん)

「映画の尺の長さ」という物理的制約の中で、Zの物語(本題のエピソード)も破綻させず消化しなければならない以上、富野監督の描く”純愛”の描写ギミックにさける時間(尺の長さ)も拘束されるので、
「関係のないこと」とは言えないと思います。

そして、“純愛”こそ実は“恋愛至上主義”なんですよね?
「純愛」=「自分達の相手への想いを正当化(内因を排除)して保持(外因も排除)し続けるという行動」が、当事者達(二人を取り囲むコミュニティも含む)にとって“ドラマチック”でない訳がないと思うのですが、どうでしょう?

> それに「納得がいかない」というのは、彼らの恋愛が“ドラマチック”な要素を欠いているという不満>感なのではないのかと私には思われます。 (囚人022さん)

でも“ドラマチックな要素“を欠いているという不満はありません。
カミーユ視点の恋愛感では、「フォウと死別」、「レコアの離反と死別」、「エマ(とヘッケン)のカップリング(?)と死別」と“ドラマチック”な要素てんこもりなので、
対ファの“純愛”を描いているというのなら、ポイントポイントで、「カミーユの対ファ」の心情の揺れ(それが特段ドラマチックである必要は無し)を、韻を踏んで描いておく必要は有るんじゃあ無いですか?という事です。

>第一部でも、第二部でも、カミーユとファは抱き合ったり、じゃれあったりしてますからね。
>ただ自然ではあっても、あまりロマンチックな要素がないのは間違いなくて。

第一部の抱き合いは、身内意識(両親の代わり、兄弟姉妹感覚)での、不安感を軽減させる
行為であって恋愛感覚の抱き合いではないと思います。
(第二部のは見直してみないと解りません。<-それ位の印象しかありません)

*****
『ラストのカミーユとファの抱き合いに反発?』

>ファと(みっともなく)抱き合うことが出来るカミーユだからこそ、(囚人022さん)

それと、「ラストのカミーユとファの抱き合いに反発?」ですが、
自分的には、カミーユとファとの抱き合いその行為自体には
嫌悪感も反発もありません。ガンダム系でいうと、F91のラスト等と
そう大して変わらないので「みっともない」とも感じなかった…です。
でもあの描写は、カミーユの「(性衝動を理性で抑えられないという程度の)純情」
ではあっても「純愛」では無いと思うんですよね。

>そこにカミーユとファの“純愛”をあらかじめ描いておいたのでは、
>あのラストが“みっともなく”は見えないでしょう。(囚人022さん)

“みっともなく”思わなかった人からすると、“純愛”をあらかじめ描いて
おいても良かったのでは、と思ったのです。

*****
『夢を追い続けるだけでは自分自身が崩壊してしまう?』

>夢を追い続けるだけでは(夢見る主体である)自分自身が崩壊して
>しまうかもしれないような状態に置かれたなら、みっともなくても
>手近な現実ときっちり向き合うことも、描いておく必要がある、
>のではなかろうか。(囚人022さん)

>あそこでファと(みっともなく)抱き合うことが出来るカミーユだからこそ、今回は“崩壊”しないで>済んだんですよ?(囚人022さん)

囚人022さんは、旧約で、カミーユが「夢を追い続ける(恋愛)」で妥協しなかったから、
崩壊したという様な主張ですが、本当にそうでしょうか?ちょっと強引なこじつけの様に思います。
旧約ラストでは、次の作品への移行に伴ってキャラクター整理が必要で、
エマ->不要->死亡。
カミーユ->不要->主人公なので殺せない->廃人。
クワトロ->不要->副題主人公なので殺せない->行方不明。
でしたが、
ZZへ続かない新約ラストでは、「カミーユ->不要->主人公なので殺せない->廃人」という
流れ(富野監督が自分でやってて自分で気に入らなかった)が不要になっただけではないでしょうか?(新約では必ずしも死ぬ必要の無かったエマは死んでいますが…)
現にカミーユは何だかんだ言っても「シロッコを討つ」という「夢(主人公の大義)を追い続け」て
当面の夢は旧約も新約も果たしていますし、何より旧約でもZZで復活して、ファを選んでいる訳ですから「夢を追い続ける(恋愛)」で妥協する、しないは関係が薄いのではと思います。

*****
『遠くの1万円vs手持ちの500円とは?』

「遠くの1万円~手持ちの500円」という例えは、「カミーユにとってのファの
存在は本当はそう(手持ちの500円)ではないでしょ?」、という反語的な意味合い
で使っています。
なのに描写不足でファが「手持ちの500円(他の女性キャラより魅力が薄い)」的に描写されている感があるのが気になるという事です。
下手をすると、ファが作劇側に便利な(カミーユ専用ご都合主義的恋愛)キャラになりさがっていませんか?(例えばエヴァのレイ等との比較で)観客が他の女性キャラ(フォウとかエマ)よりもファに魅力を感じられないのに、カミーユはファに魅力を感じられるのか?という事でもあるのですけど…。

これは、何の努力もせず(妥協する努力はしているかも)に手に入れた物(対象への愛情が100%の場合もあるでしょうけど、これが仮に60%位だったら)を何時までも大切に出来るのか?
逆に(関係が)壊れそうになった時、今度は(関係を)維持する為の労力をどれくらい払い(努力し)続ける事が出来るのか?という考えがベースに有るのです。

> 手の届かないところにある1万円を夢想し続けているより、今、目の前にある500円を大事に>するところからはじめてみればどうだろう?…と書いてしまうと、常識的で当たり前のつまらない>表明のように見えますが、それが反発を買うものであればあるほど、実は、生ぬるい肯定では>なく、思いがけない問題提起になっているのではないかと。(囚人022さん)

でも、手持ちの500円を持っている人は、今、目の前にある500円を大事にすれば良いのかもしれませんが、手持ちの500円さえ持っていないで、1万円(500円かも)の獲得を狙っている(夢想し続けている)人は順当に1000円とか500円とかから獲得する努力をしましょうというのが富野監督の主張なのですかね?

これは「反発を買う」という程のものでは有りませんし、人によってはコミュニティによるレッテルの為、「生ぬるい肯定」ですらなく、思いがけない問題提起にもなっていないと思います。

*****
『“恋愛”をもう少し“下衆”なものだと考える?』

>「恋愛というのはもう少し下衆なものだと考えてもいいんじゃないか、それを下衆に扱ったと非難>するのではなく、」(囚人022さん)

「恋愛をもう少し下衆なものだと考える」この感覚は良く判りません。

*****
『考察のしめくくり?』

恋愛至上主義を貫くという事は、コミュニティと敵対し、孤立しても恋愛を
優先するという事で、コミュニティからの祝福とは背反的な位置にあると
思います。コミュニティからの祝福はコミュニティと利害が一致する場合のみだと。

富野監督の恋愛感も一般論とさほど変わらず、
「恋愛」とは「(一見)100%の完璧な相思相愛(と見える)」が理想形かもしれないが、
その実体は、「両者ともに相手へ妥協努力や理想(美化)化をした相思相愛」なので
理想と現実の間でタイミングとかを考えて手を打ちなさい、スタート地点に立たなければ
進めないという事ではないでしょうか?

個人的には、富野監督は御自身の発言(NT論とか、キャラクターの生死とか)を
平気で覆す人という認識なので、
あんまり「富野監督がインタビューで話していた事」は重視していないんですね。
参考としては読む・聴くですけど…。あくまで参考。
富野監督発言は「より最新発言」や「より最新作品中での描写」をフォローすべき
ものですよね? 覆った発言であっても、最新発言が正な訳ですから…。

*「富野監督がインタビューで話していた事」
=「“純愛”を一見“純愛”と見せずに描く」と「実は、恋愛の相思相愛には両者ともに相手へ妥協や理想(美化)化の相互作用的努力が必要」
*「富野監督の実際の作劇」
=「“純愛”を一見“純愛”と見せずに描く」---成功しているか不明。観た人の感想で、「星の鼓動は愛」で「カミーユとファの“純愛”が良かった」とか、「“純愛”に感動した」とかの感想はあまり聞かない様な…。
*「囚人022さんの論旨」
=カミーユとファのラストでの描写への観客の反応を恋愛論的視点に重心を置いて観ると“恋愛至上主義”かそうでないか(知らず知らずの間に“主義者”になってないか?とか“純愛”観の見直しが必要)という問題になるのかもしれませんが、実際には恋愛論的視点のみで観ていない(作劇論(=劇の構成)として新訳Z「星の鼓動は愛」に納得がいかない)人もいる訳で、それ“恋愛論”とこれ“作劇論”とは本来別ものだという事でしょうか?

終わり?
*****

>

「ほしの 鼓動は アイ 2-2」の改行の修正を編集で何度か試みましたが、パスワードが文字化けしたらしく修正出来ませんでした。読み辛くてすみませんm(_ _)m

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/579-2c856269