流通コスト減はYouTubeの免罪符になるのか 

[2006/10/09] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 映像表現の「作品」性と「商品」性を制作コスト低下を前提として調和させるには

 読み応えのある長文で、非常に興味深い内容でした。いろいろな内容が盛り込まれていて、ちょっと難しかったので、ご紹介を兼ねて自分用のメモを書いておきます。

 YouTubeにアニメをアップロードする行為の是非が問題。
 多くのアニメは「作品」であると同時に「商品」でもあるので、YouTubeで紹介されて注目を集めることはよしとしても、それではクリエイターの収入にはならないので、そこは迷惑だと。しかし大半のクリエイターは、その両方の意識を持つだろう。

 だから、映像作品や音楽や出版等、文化、表現に関わる商品は、普通の商品とは違う縛りがある。放送局には法的な参入規制があるし、再販制度があるし、各種の権利団体もある。そういう表現に関わる商品に関わる制度は、本来、「作品」としての側面を支えるようになっているべきだと思う。
 つまり、素朴な「これいいよ」「ほんとだ、すごいね」という表現を鑑賞し感激する人たちの気持ちが、うまく商品としての流通につながっているように、その特権を生かして制度を維持していくべきなのだ。

 至極正論。分かりやすいまとめになっています。そして、流通の環境が変化しつつある中で、この制度を現状に合わせて再考していくべきではないかというのが、この論の主題のようです。

 たとえば、映画であれば、制作サイドでも純粋にクリエイターと言えるのは、監督、脚本、重要な役の俳優くらいで、音声やカメラや編集等の技術スタッフは「商品」を製造する過程に関わっているプロフェッショナルだろう。そして、宣伝や配給を行なう組織や映画館の人は、ほとんど全面的に「商品」としての側面に関わっている。

 「作品」としてではなく、専ら「商品」としての側面のみに関わる人たちがいる、ということを言うために例示されているこの部分は、細かいことを言うと難しい気がしました。むしろ監督こそ作品の興行的成否を考える立場に置かれることが多そうな…。(笑)

 ここで論者(essaさん)は、「映像制作のコストが技術の進歩によって減っている」ために、専ら「商品」としての側面のみに関わる人たちの生活が脅かされつつあるという点をいったん指摘しています。
 これを“前提”と断ったうえでessaさんは、作る側も見る側も「作品」という意識が強い時のみは、クリエイターの「権利侵害」を「倫理的に可とする」としています。

作る側が「作品」「表現」として制作していて、見る側がリスペクトを持って見ている場合。その場合は、「作品性」と「商品性」の相克は、「作品性」を優先して解決すべきである。つまり、その作品の「商品性」にぶらさがっている人たちは、作る側見る側の素直な気持ちがそのままお金となって回るような工夫をすべきだと思う。

 この部分は、論としては正しいと思うんですけど、それは難しいなぁとも感じます。「作品性」と「商品性」は、制作に携わってるスタッフのかなりの人たちにとって、実際には不可分なもののように思えるもの。見てる側にしてもクリエイターをリスペクトする気持ちがあってさえも、少しでもローコストで作品を観たいという誘惑に抗することは容易じゃないし。

 作る側が「商品」として制作しているものを、作る側の意図に背いてアップロードするのは、「権利侵害」であって望ましくないと私は考える。「商品」は市場で流通させるべきで、市場は一定のルールがなければ運用できない。だから、市場の前提となるルールを破壊するような形で、「作品」をアップロードしたりタダで見たりするのは良くない。
 ただし、そうであれば、作る側は市場淘汰による技術革新に直面すべきである。表現、作品、文化、報道等を扱う者として、市場の中で特別扱いされていて、それを利用するような形で技術革新を遅らせていて、「これは商品です」と言うのは筋が通らないと思う。

 些事ですが、「市場淘汰による技術革新」は、「技術革新による市場淘汰」でしょうか。(一応、そう読んでおいて、)ここで少し私が混乱するのは、作品の“制作”に携わっている人たちの問題と、その“流通”に携わっている人たちの問題を、すっかり一緒に論じてしまうことに問題はないのかなぁという疑問です。アニメの制作現場がどんどんデジタル化されていくということと、アニメ作品がWEBで配信されたりYouTubeにアップロードされてしまうこととは、直接的に関連があると言えるんだろうか。
 むしろ、ここでの話は作品の“流通”に携わっている人の話に限定してしまったほうが、イコールそのまま、専ら作品の「商品」としての側面のみに関わる人たちの問題として、分かりやすかったような気もします。(もちろん流通に携わっている人たちの中にだって、「作品性」への志を持って関わっている人たちだっているんだとは思いますけどね。)
 デジタル化による“制作コスト減”と、“流通コスト減”の話は、突き詰めて見ていけば関連は皆無ではないかもしれないけど、ここでは切り離して考えたほうが、話の整理は付きやすいように私は思いました。これを混ぜこぜに考えてしまっては、話の筋が見えにくいのではないでしょうか。
 制作現場のデジタル化に関して、大型汎用コンピュータの例を示して考察している内容は、大変興味深いものです。ただ、「映像制作は、監督が自分でカメラを回し自分で編集し自分でアップロードするものが大半になるだろう」と述べておられる部分に関しては、既に『ほしのこえ』などの例もあることだし、やがてそうしたものが増えてくるだろうとは思いますけど、それが本当に主流になっていくのかどうかは私には疑問です。(むしろ制作コスト減の観点のほうから、それに近づいていく可能性は決して否定し切れませんけど。)
 一方、“流通コスト”の削減のほうに関しては、その成果は本来、観る側・作る側の双方が享受すべきものだと思われます。(低廉な料金であっても)より多くの人に観られることで、制作現場の人たちがむしろより多くの報酬を得る結果になってこそ、誰もが納得がいくのではないかと。

もちろん、法律違反は無い方がいいが、業界関係者を含む「合意」を待っていたら、違法行為はどんどん蔓延し、映像作品に対して「商品」として関わる人の声が大きくなって、「作品」として映像制作をすることは、従来の規模の金額をかける人も、現在の技術を駆使して少ないコストで行なう人も、両方とも難しい立場に追いこまれるだろう。

 結論としては、essaさんのおっしゃっていることに私も大筋で同意なのですが、「合意」できない業界関係者は専ら“流通”方面の人たちであり、流通手段の技術改革で「業界全体が痩せてしまう」かに見えてしまうのは、制作現場がいかに流通方面の人たちに押さえられているかという別の問題なのではないかという気がしてならないのです。
 そこではじめて、「自分でアップロード」という、制作現場と流通を直結することの、新たな可能性が見えてくるのですけど、私が整理しておきたいのは、「最大多数の最大幸福」のための「シフトチェンジ」は、クリエイターにとっても物心両面で幸福であるべきだという当たり前のことに過ぎません。

フリーダウンロードを前提としてユーザとクリエイターの間で少ない金額でいいから確実にお金を回す仕組みが確立されるべきである。そういう仕組みに合わせた法整備をして、そこから違法行為を完全に取締ればいいと思う。

 これにはもちろん賛成です。ただし、ユーザーの負担は今より少なく、かつ、より多くの人に受け入れられたものならば、できればクリエイターの手にする対価も今以上に多くなるシステムを考えるべきだと思うのは、そんなにおかしなことなのでしょうか。
 そういう意味で、制作現場の人たちが流通に携わる人たちの支配下から脱せない状況下では、確かに実際問題として「合意」形成は困難であるかに思えますが、理念的には流通経路を最小限にすることについて、作り手と受け手の間で合意を形成することは「不可能」ではないと私は思います。
 YouTubeがその可能性を示した役割は評価してもよいと思いますが、そうかといって、それで現在蔓延している権利の侵害を「倫理的に可」とする免罪符にするわけにはいかないのではないかと私は思うのですが、いかがなものでしょうか。



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コメント

> 一言だけ

>映像作品や音楽や出版等、文化、表現に関わる商品は、普通の商品とは違う縛りがある。放送局には法的な参入規制があるし、再販制度があるし、各種の権利団体もある。

コメントでの議論や
後の記事展開の方向性の役に立つと思いますので
本格的なレスは後日するつもりで
現在、一言のみ


・中心となっているのは、知的財産権絡みの話題ですので、そちらでの話題を調べ、吟味されるとよいかと。
・放送局の免許制については公共財としての側面がありますので、関連はないわけではないですが別の話でしょう。理解の際には議論をわけたほうが
すっきりします。

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