「本当の事」―エヴァとイデオンと 

[2006/09/23] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

カオスの縁 ――無節操日記 -  エヴァンゲリオンについて思うことなど

 zsphereさんの記事を読ませてもらって、とりあえず「かなりなるほど」とだけ言ってたんですが、何とか落ち着いてきましたので、今日は私ももう少し、そこから思ったことなどを書かせてもらおうかと。
 まず『新世紀エヴァンゲリオン』が好きか嫌いか、ということで、zsphereさんが、そこの旗幟を鮮明にして発言しておられるのは潔いと思いながら、では自分はどうなのかと胸に手を当ててみると、・・・たぶん大して好きではないです。だからといって嫌いというほどではない。よく言及するわりには強い思い入れがあるとは言えない。どうも私は“エヴァ現象”をリアルタイムで経験できなかったために、自分がアニメファンをお休みしてる間の“黒歴史”の重要な一部として、(また作品としてだけではなく現象として、)興味深く見ているという立場のようです。
 そういう目で見て、あの作品がそこまでスゴい作品だったのか?というと、これがどうも、いま一つ呑み込めていないところがあり、例えば先日書いたように、押井さんが「エヴァはヤマト、ガンダムの末裔に過ぎない」と述べているのを聞くと、その説のほうに説得力を感じてしまいます。つまりエヴァは何か革新的なものを生み出したのではなく、ヤマト以降の日本アニメの流れの中で、(偶然か必然か)行き着いた極北みたいなものと言うべきかと。(・・・それならばそれで大したものじゃないか、という考え方もあるでしょう。だけど、どうなんでしょうかね?)
 「子ども向け」を無言の前提としたアニメ観では表現自体がタブー視されている、エロやグロといったものを描いたということ。でもそれらは、前提が覆されて以来、連綿と続いてきた表現レベルのエスカレートの延長に過ぎず、行き着くべくして行き着いたという印象が私にはあります。「庵野の最大の取り柄は、正直に作ることだと思うんだよね」という宮崎さんの批評は、そういう意味に私には聞こえます。もちろんエログロだけじゃなくて、底抜けの自分語りという意味も「正直」には含まれていると思いますが、何しろそれだけで、ほかに「何もない」かのように言われて「ええ」と素直に答えてる庵野さんってのが、そこにいるのが不思議なんですよね。

 『エヴァ』の原稿はシンクロ率が上がらないと書けないというのはどこで読んだっけと思ったら、ここでした。 →アニメ様の七転八倒  第63回 エヴァ雑記「纏め」1

TVシリーズの終盤の内容について否定する人も肯定する人も、『エヴァ』を語る事によって正体があぶり出されていく。エントリープラグの中にいるシンジは王様である。そこは居心地がよく、他人に脅かされる事もない。だが、彼は王様になったのに、自分に価値があるかどうかで苦悩する。そして『エヴァ』について語る人は、否定する人も肯定する人もシンジと同じように、王様になっている。例えば、エントリープラグの中にいる事とパソコンの前で感想を書いているのは同じだ。作り手も自分が王様になるつもりで作品を作り、王様になりたい人が批判する。観ている人も、作っている人も作品の一部になってしまっている。これが補完だ。

 なるほどエヴァ現象とはそういうことかと感服しました。作品にシンクロしてその一部と化してしまえば、いわば共犯関係です。見てハマって、そこで傷ついたとしても、それは作品に傷つけられたのではなく、自傷行為としか本人には思えないということ。
 そこで見ている人間にとっては自分が王様なのだから、作り手の考え(そこに彼のモラルも含まれる)などは、ひとつの“話のネタ”に過ぎないんでしょうね。問題視されないわけです。
 私は作品なり作家なりを自分の他者として認識し、それとの対話、感情のやり取りこそが、一番楽しい種類の人間ですが、そうしたものを根本的に欠落させていた作品が、“人と人のコミュニケーション”の難しさを語る。・・・このねじれの帰結として、テレビ版のラストにしても、劇場版のラストにしても、そういう勝手に王様になっている“観ている人”に対し、作品として、作者として、「冗談じゃない、他者なんだぞ」という異議申し立てをしたのだったかもしれないけど、それさえも“話のネタ”として消費されてしまうのでは、本当にコミュニケーションは困難だと、思わずしみじみしてしまいます。(エヴァってのは、そこが面白いんですが、それは作品として面白いのか、話のネタとして面白いのかが、私の中でさえも危うい存在なのですねー。)
 「第26話 まごころを、君に」のラストをどう考えるのか。強制的な“補完”の拒否、「気持ち悪い」と言われても、他者が存在したほうがいい。・・・例えばエヴァに大きな影響を与えていると考えられる『伝説巨神イデオン』の“イデ発動”で終わる結末は、強制的な補完であるかのようにも思えます。ただ、ここでの大きな違いは、補完を受け入れるかどうかがシンジという一少年に委ねられていたエヴァに対し、誰がどれほどがんばっても(バッフクランという星がその総力を傾けてさえも)イデの発動は結局止められなかったという非情さです。
 それは人間には乗り越えられない“業”があるという残酷な指摘ですが、個人の好き嫌いを超越したところにある一面の真実だと私は思います。ドラマとしては「傷を舐めあう道化芝居」を描きながらも、作品全体ではこの“人間の業”というワンポイントに集中していったイデオンの訴求力に対して、エヴァってのは膨大な情報量を持つ作品全体が大きなねじれを見せながら、“傷の舐めあい”以上のことを伝え切れなかった残念さがあるような気がします。
 zsphereさんは、富野監督が一番過激に「本当の事」を描いてしまったのは、『機動戦士Vガンダム』だろうと思う、と書いておられます。でもVガンでタブー破りが多く目に付くのが事実としても、タブーを排してでも語るべき「本当の事」の核心に物語全体が集中していくのでなければ、それはただの失敗作です。(ラスト近くの信じられないような集中力は認めますけどね。)
 私はVガンを、「アニメじゃない!本当の事さー」と能天気に歌っていた『機動戦士ガンダムZZ』に連なる作品だという変な自説を言い続けてますが、「本当の事」ほど語るのに難しいものはないんじゃないかと。(ここでいう「本当の事」は、ただの現実性、現実にありふれていることという意味ではないですよ。)
 それはアニメの表現が稚拙だから難しかったのではなくて、求めているものがアニメだからこそ語れる「本当の事」――普遍的な真実であり、その一点にアニメという劇全体が集中していくことの困難なのではないかと。zsphereさんが文末近くで触れている“アニメの監督たちに特に顕著な真摯さ”というものがもしあるのなら、私はそういう風に理解したいと思います。だからバカ正直なだけで作っても、真摯なものには見えないのではないでしょうかね・・・。



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コメント

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マイミクのストラトスさんにも送ったメールです。

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庵野監督が「エヴァのモチーフは日本の鬼です」と、頑なに主張していたのを思い出して調べてみたのですが、「鬼」は永井豪氏の長年のテーマだったのですね。山下いくと氏も「自分の子供を守る頭の悪い母親」というコンセプトでラフスケッチを描いていたので「じゃあ初号機は鬼子母神なんだ」と頭の中で片付けていました。

ところがウィキペディアで調べていら「渡辺綱(ガサラキの、ギレン・ザビみたいなお兄さんの”前世”)」が鬼退治の英雄(ガサラキでは腹黒い)として例に上がっていたので「永井豪-庵野秀明-高橋良輔」と つながっている?! と驚きました。じゃあ日本の現代アニメも 鬼抜きでは語れないなあ、と思い「不動明王(不動 明=デビルマン)」を調べると、明王部に属する仏の仲間でした。

「初号機は鬼で、デビルマンは仏」というのが興味深かったので報告しておきます。

作家性や社会的責任がどうこういうより、創作家のテーマの血脈のほうが大事なんじゃないかなーと、ボンヤリ考えています、

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ZZとVの連続性というのは多分あります。
子供たちだけで活躍するという点で
「子供たちの世代の可能性」という要素が一番強くリンクしている。
まあ、富野作品でさかのぼるなら
ザンボット3、ガンダム、イデオンと子供たちが活躍する話があるのですが。

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貴方も自分語りが好きなんですね

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コミュニケーションっていうのは難しいですね

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