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Vガンダム 第6巻の補遺 

[2006/07/29] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 機動戦士Vガンダム、20話ほどは辛抱しながら見てきたら、ここへ来てやっと見え方が変わってきたというお話を前回しましたが、今日はちょっとその続きを書いておきますね。
 この作品は「“ガンダムらしさ”からの離脱(レギュレーションの変更)の試み」という点で、ΖΖに繋がってるんじゃないかと考え始めたら、なんかいきなり視野が開けてきたような気がします。で、これに先行するものがΖΖだったとしたなら、後続するものが∀ガンダムだったという位置づけになるんじゃないでしょうかね。(Vガンダムの終了後にはじまった、最も“ガンダムらしさ”からは遠いと目されるGガンダムに対する富野さんのスタンスというのも、そう考えれば何だかうなづけるような気がします。)

 前回はストーリー運びの話をしてしまったのですが、もう少し分かりやすいところで戦闘描写の中で気になったことを少しメモしておきます。
 たとえばモビルスーツではなく「生身」の相手を撃つことへのためらいというのは、ファーストガンダムでも既に描かれていたことでしたが、「戦場でそんなものにこだわっていては死ぬだけだ」という方向へとどんどん流されていってしまった気がします。
 たぶん、実際に少年兵が戦場に立ったなら、そうした疑問を持つのはほんの最初だけで、すぐに「殺すか殺されるか」のゲームに順応してしまうのが、本当の姿でしょう。自分より明らかに弱いと思われる敵に遭遇した場合、せいぜいでもアムロのように「なぜ出てくる!」と言いながらためらいなくトリガーを引いて瞬殺。そして哀れな学徒兵の最期のほうを乾いたタッチで描くというのがガンダムのレギュレーションでした。
 そういう意味で言ったら、ウッソは名前のとおりに「嘘」ばっかりの少年で、こういう荒んだ戦場で戦ってきて、この期に及んでまだトリガーを引くのにためらうなどというのは、そうしたガンダムの世界観の中ではこれまで許されなかった作り事です。
 ΖΖ~Vガン~∀というのは、テイストも印象もそれぞれかなりはっきりと違いますが、ジュドー、ウッソ、ロランという主人公の少年たちに注目してみていくと、共感できるか、感情移入できるかというのは別にして、富野監督が描きたかったキャラクター像というものの連続性が見えてくるような気がします。

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コメント

> そういえば

ジュドー、ウッソ、ロランは戦闘に順応してませんでした。
富野系ガンダムの主人公は大雑把にいって、戦闘マシーンになってしまうアムロ型と、戦闘に否定的なジュドー型に区分できそうですね。
演出については、ZZもVも荒唐無稽な部分があるものの、Vの方が深みが感じられるのは、作品の方向性からなんでしょう。

>

自力でなんでも打開できる熱血系のジュドー、目の前の現象を何でも理解して受け入れる天才系のウッソ、徹底的にいい人を貫くロラン。ロランだけちょっと違うような気もしますね。

ZZとVに共通するのは「対象視聴者層が子供」という点かと思います。富野監督的には、そのあたりを意識した結果ああいうキャラクター造型になったのかなと。
逆に違う点は、ZZは覚えてないと言うくらい開き直って作った作品であるのに対し、Vガンダムはスポンサーや過去のファンへの反骨心で作り上げた部分があるので、そこがメッセージ性の強さの差になっているのかなと思います。

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