「“物語”の失速と再生の可能性」についてのメモ 

[2005/09/04] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(6) | TOP ▲

身近でもあり得そうな、現実に近い物語。自己投影が容易であるかに思えて、かえって想像力を働かす余地がないという側面もあります。「物語」とは、物語の世界そのもので完結するものではなく本来は、それが持つ「ひとのイメージを喚起する力」によって、読み手それぞれの胸のうちに百人百様の豊穣な世界を創出することで、読者の精神を豊かなものにすることに、その存在意義があったのではなかったかと思われます。
(※少し簡略化した断定に過ぎますが。)
アニメーションに実写を超える表現力が見出されるのは、まさに限定された情報量によって、逆にこの想像力を喚起する力によるところが大きいのではないかと私は考えています。
(※抑制された表現によって深いイメージを喚起するということが、実は日本人の美意識の歴史で、世界に特筆されるポイントではなかったかとも思うのですが、これについてはまだアイデアの段階なので、ここでは提示するだけにしておきます。)

「双方向」性の希求ということ。今日的な兆しとして捉えられそうなこれの現状は、インターネットというよりも“ゲーム感覚”に留まっていると言うべきでしょう。冒頭に記した解釈で読み進めるならば、「物語」とは本来、作者のひいたレールの上を筋書き上は進行しつつも、読み手はそれぞれ積極的に想像の翼を広げながら主体性を持って読み進めたものでした。・・・ゲームでは一見、物語の進行に読み手が参加しているように見えますが、結局は規定の選択肢のどれかを選択しているに過ぎません。一方、物語からひとがイメージを膨らませる力は無限大だったのです。
物語に描ききれなかった世界を想像する試みは、そもそも各読者個人の胸の中にあった出来事だったと思います。「二次創作の小説」などは、それをかたちにしたものだったでしょう。が、そうしたものが比較的容易に世間に発表できるようになる。あるいは「裏設定」のようなものがメディアに乗って商業媒体として流通可能にもなる。・・・自分が想像の翼を広げることの先回りをして、より完成度の高いものを次々と見せられる、そして商品として購入させられる、だんだんとそうしたことが常態化してくる。「イメージ」とは代価を支払って手に入れるもので、自分の胸のうちで時間をかけて育むものではないように思われてくる
(※情報化、あるいは記号化、デジタル化の負の側面と考えてもよいでしょう。)
やがて、そもそもの物語に想像力を喚起する力があったかどうかなどはまったく問題にされなくなり、「商品」開発の「ネタ」として有効であるかどうかだけが主要な関心事になっていってしまう。(企業にとっては言うまでもないが、物語の受け手にとってさえ。)・・・おそらく優れた物語は想像力を喚起する余地をそこここに残すものだと思うのですが、見出された余地はことごとく「商品」によって埋め尽くされていく現状では、物語はその神通力を完全に喪ってしまいます。

今や完全に飼いならされてしまった物語の読者たちは、企業にとって“都合のいい消費者”でしかありません。この状況下から「物語」が再生を果たせる可能性は、果たして残されているのでしょうか。
富野氏は、こうした状況を生み出してしまった責任の一端が自分にあることを率直に自覚し、“時代”に対して真っ向から「物語の再生」を問おうとしている作家であるように思えます。(その志向に対して己の力量不足を常に嘆いてはいますが。)
もう一方の雄、宮崎氏は近年、どうも“世界”に対して評価を求め、外側から今の状況を変えようという戦略を持っている作家なのではないかという気がします。(彼のことは気になってならないのですが、あまり深く学んではいませんので、これ以上は言葉にできません。)

「物語との双方向性」が今、水面下で希求され始めているのだとするならば、それは「物語の再生」を望むひそかな思いが、人々の胸のうちに醸成されつつあることを示唆するものではないか、という淡い期待があります。それは“兆し”への過大評価であるかもしれません。しかし、表現とは、作家一人の問題ではなく、それを発するものと受け止めるものの主体的なコミュニケーション(それが言語化されるかどうかは問題ではなく)によって成立するものだとするならば、“物語の不在”という状況は、受け手に“物語を希求する”意思があるかどうかによるところも非常に大きいのであって、このことを今、明確に意識化する意義は、決して小さくはないと思うのです。
残念ながら、時代は止めようもなく、情報化=記号化=デジタル化は21世紀初頭の現実です。ならばこそ、例え一人一人は小さな声であっても、私たちは明確に言葉を発するべきなのではないでしょうか。
今こそ「物語の再生」を強く望む、と。

(この文章は、ラジヨさんという方との対話の中から生まれてきたものであることを申し添えておきます。)
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コメント

> 宮崎監督の物語

と言えばやっぱり「ハウルの動く城」ですか。
私は未見なのですが、耳にする話はどれも「美しい画面だが物語がない(あるいは不足している)」と言うものです。

これってこの話と関係あります?

> はい。

・・・と言いますか、そんな評判しか聞かないので、見る気にならなくて、私もまだ見ていないのですよ。宮崎さんは戦略性のある方なので、何か考えあってのこととは思うのですが。「逃げてる」とは思いたくないのですよね。

> 最近の宮崎作品

個人的には「もののけ姫」以降はどれも物語が破綻、または掘り下げ不足のように感じます。
「ハウル」「千と千尋」などはは好きな作品ですが
良い作品とは思えません。
世界観や全体の雰囲気はとても良いのに・・・
DVDが出たら見直してみます。

> 詳しくないんですけど、

特に「ハウル」は未見なので何ともいえませんが、「もののけ」や「千と千尋」は確かに“世界観”に力を注ぎすぎて、“物語”との拮抗が崩れ気味だったかもしれませんね。極言すると「土俗臭」のようなものがあるわけなんですが、海外のアート系アニメーションにもそういうのがあるような気がしてまして、ローカルを徹する方がインターナショナルに通じるという戦略と邪推していいものかどうか、と軽く悩んでいるわけです。

> そー言えば

ガンダムSEEDに於いても「物語の破綻」が批判の的でしたね。映画化された「デビルマン」「キャシャーン」などでも・・・。

っで、デビルマン批判の真っ最中、時に気になった擁護論が
「邦画って大抵この程度の脚本」って言うもの。

ひょっとしたら日本の映像作品では「物語の破綻」ってもっと根深い現象かも知れません。他にみた事ののある邦画「踊る大捜査線 The Movie」でも物語が破綻してたなぁ・・・。

日本ではすでに物語の崩壊って、日常化してるのかも・・・。

> 難しいのですが、

正直、私の知性で論じるには荷が重過ぎる話題なのですが、「物語」についてはまだまだ考えることがあるので、また触れていきたいと思っています。今考えているのは、富野氏の言う「本線の情」というやつがポイントになりそうです。

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