オタクだか新人類だか(どこから来てどこへ行くのか) 

[2006/07/17] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 前回の続きのようなことになります。世代的には第一世代ですが、永遠にオタク未満の私なりに、オタクの同時代史みたいなものを考えてみたいと思いました。

 で、さっそく「宮台真司、新世紀の文化を憂える」というのを読むと、「オタクの誕生」は1970年代後半、カルトQ的なマニア層から…ということにされています。

その頃の、カルトQ遊びみたいなのをするっていうのは今のオタク的イメージとは少し違ってて、対人能力はむしろメチャあるやつが多かったよ。


 このあたりのイメージでは、「新人類」という言葉とも重なっていたのが、1970年代末から80年代初めごろ、急速に変化しはじめる、と。

オタクが仮想現実と現実を峻別して人生の目的として仮想現実世界を選択することに対し、新人類は情報化社会によって現実世界のほうが仮想現実化し、現実社会で生きるとは情報化された現実を情報処理することであると唱え、それをさまざまな哲学的命題によって理論づけようとした。(新人類―Wikipedia


エネルギーがあってしたいこともあるけど、たとえばデブでモテないとか。そのエネルギーをどこに振り向けていいかわからなくて、イライラしてるような状態。それが抑うつだとすると、まさに抑うつ的な連中の一部がサブカルチャーを代替的なコミュニケーションのチャンスとして見出したと。たとえば、対人能力がない、でも人とコミュニケーションしたい。タダではできない。そこに、queっていうか、手掛かりが与えられた。そういう感じだと思うんだよね。
 そういう流れが比較的誰の目にも明らかだったので、いわゆるオシャレ系のやつはそういうサブカルチャー・コミュニケーションを避けてナンパ系になり、逆に「ニワトリタマゴ」みたいだけどそれを見たオタク系のやつらが「こりゃかなわんわ」とそちら方面から退却してサブカルチャー・ツールをもっぱら用いるようになったと。(宮台真司、新世紀の文化を憂える)


 これ、分化に至る動機としては宮台さんの観察のようなことがあって、それぞれの選択した方法論というか、理論武装のしかたがWikipediaみたいなことだったというような、理解の仕方でいいのかな。
 違いの部分よりも、Wikipediaで「オタクも新人類も情報の受け手である消費者を絶対視し、全ての情報は消費者の解釈と位置づけがその意味を決めるのであって、情報の送り手が込めた価値観やメッセージ(作家性)を軽視ないし無視した」と共通する考え方について述べられているのに、すごく納得。
 当時想像も付かなかったぐらいに社会の情報化は進んだと思うんですけど、そうしたら人類はみな新人類かって感じで、新人類なんて言葉はどこかへ行ってしまった。そうなってみたら結果的に、理論武装の根拠はなくなってしまったので、「モテ/非モテ」という動機の部分だけが残ってしまったというようなことでいいのかと思ったら、Wikipediaには違うことが書いてある。
 エリート消費者としての新人類の概念がバブル崩壊で、現実に晒されて下火になったことと、「エヴァンゲリオン」によってオタクも作家性を無視できなくなったことが挙げられていますが、さて?
 エヴァは「作家性で大ヒット」したのかというのがひとつ。仮に区分をするなら、エヴァを熱く論じたのは、むしろオタクではなく新人類の側ではなかったかという疑問がひとつ。エヴァ以後、オタクは作家性を無視しなくなったんですか、へぇ~というのが、極め付けですかね。

 オタク同時代史の話のはずが、今回は「新人類」の方向へと引っ張られてしまいましたが、あちこちと脱線しながらも、また続きは考えてみたいと思っています。

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 これからは「30分でササッと書く」とか誰か言ってましたよね~。(駄目だこりゃ! 笑)
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