たとえゲームは不可避だとしても、 

[2006/07/16] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 「Stage1=恋愛ゲームの勝者だけが、Stage2=人生ゲームへの参入資格を持つ。ついては、恋愛ゲームのマニュアルはコレだ。」…というような風潮、すなわち恋愛至上主義(=恋愛資本主義)に感じる反撥ということについて、先日から、駄文をいくつか記しました。

ニュータイプ論と見せかけて、実は・・・
恋愛至上主義 イクナイ!w

 「モテるための努力を回避する」ということは恋愛至上(資本)主義への批判的態度ということで、「非モテ」宣言(笑)を図らずもしてしまいましたが、矛盾したことを書いているのは一応承知しております。

 恋愛ゲームに上手に適応できなかった人間の中から、少なからぬ比率でモテない趣味であるオタクへ奔るものが出ているという現象。(*1)
 「目の前の相手と向き合う事」を忌避するオタクは、「自分しか愛さない」という事にも繋がりかねないのではないかというオタク批判はおそらく正しいと認めたうえで、「向き合わない」オタクばかりが責められるが、「向き合えない」環境にも問題はあるだろうということを私は書きました。
 恋愛ゲームなんかよりも人生ゲームのほうが本番なのであり、人生ゲームを「現実」として直視することが社会のためだというのなら、恋愛ゲームをクリアできないものは人生ゲームに参加しちゃいけないかのごときルール設定は、実は全然社会のためになっていないという異議申し立てをしたかったのです。

 社会のこうした風潮について、恋愛ゲームを「金になる市場」とみなす広告戦略の存在が指摘されましたが、同時にそのゲームから退いたはずのオタクがまた、モテるために使うはずの資力を他のことに使う「金になる市場」になってしまっているという事実も見なければならなくなりました。(*2)

 自分の「研ぎすました価値観」を磨くことの、今日いかに難しいことか!

 いったん切ります。

*1)
 本来のオタクはそういうものではない、という言説があることも承知しています。この「オタク is Dead?」の問題についても、いずれ考えてみたいと思っていますが、ここではいったん、主として非モテ趣味としてオタクを考えています。
*2)
 避けても避けても出てきてしまいますが(笑)、オタキングによるオタクの定義は「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力を持っている人たち」だそうであります。そして、そうした意味でのオタクは死に絶えたのだ、と。



 実はここまでは長い前ふりで(ぇぇ?)、ここからが本日の本題であります。
 ここで悩ましいのは、社会と関わりあいを持ちながら生きている限り、「ゲームは不可避なのか」ということです。
 そこでひとつ、参考になる考察をご紹介します。

【DQNという個人の適応形態の再評価――public spaceにおける暴力の復権】

・他者への迷惑を顧みずに社会において行動する(反社会的・自己中心的)
・込み入った思考を苦手とする。長期的展望もあまり持たない(短絡的・知的でない)
・問題の解決や成員の差異化は、専ら恫喝や暴力によって行われる(暴力や恐喝を否定しない)


 ここではDQNは、以上のように定義付けられています。ネットでは非常によく見かけますが、現実社会でも近年、少なからず出くわす存在ですね。

 この論は、その振る舞いは憂慮すべきものではあるけれど、「ある種の個人にとって、DQNとしての適応は、彼/彼女の社会適応を最適化・最大化する有効な戦略なのではないか」というのがテーマになっています。
 背景としては現代社会の文化の細分化や地域社会の崩壊によって、互いの意図や思惑を読みあったうえでコミュニケーションを行うことが極めて困難になっているという状況。ここでのコミュニケーションには、従前と比べて高度な判断力・豊かな経験・高いストレスが要求される、と。
 いわば、人生ゲームの今日的な現実は、コミュニケーションゲームの様相を呈しているというわけですね。

しかし、DQN的メソッドを取った人間はこのポストモダン的問題を比較的簡単に回避することができる。あまり高度な判断力を求められることはなく、威圧感と腕っ節さえあれば、高い知能や豊富なコミュニケーション経験を必要としない。しかもDQNヒエラルキーの中で上位の人間に遭遇しない限りにおいては、ストレスも最小化することが出来る(なぜなら彼らはpublic spaceでも自己中心的振る舞いを押し通せるからだ)。狭義のコミュニケーションシーンにおいて現在要請される、高度な判断力やストレス耐性を、DQN達は必要としない。もし、腕力や威圧感が強くてストレス耐性が低い人間がいたとしたら、正規のコミュニケーション競争をやるよりはDQN的振る舞いに徹したほうが有利になることが出来よう。(*3)


 「public spaceで他人に配慮するのが高コストかつ低メリットな現代だからこそDQN的な個人的適応が増加している」という分析は、人生ゲーム(=コミュニケーションゲーム)のルールを変えない限りは抵抗しがたいものがあるとは思いませんか?
 筆者も「憂鬱な結論」と述べていますが、ここでの結びは「暴力の復権」ということです。「彼らの適応を侮ってはならない。ひょっとしたら、彼らのほうがあなたよりも余程(自分の能力や長所に即した形で)現代社会に適応している世渡り上手と言えるかもしれないのだ。」ということで、ゲームの勝者になる近道はDQNだということなのです。

 そんな結論には納得がいかない、・・・とすれば、どうすればいいのか?

 実は筆者は、ある程度答えを準備してくれている気がします。

報われる可能性が極端に低くなっていることに耐えて、「自分自身の行動規範をモラリッシュなものとする事そのものによって、何らかの心的・具体的利得を得る」生活を目指す。
他人に配慮したところで得られるメリットは零に等しいことに耐えて、「見返りを求めずに他人に何かを為す行為」による心理的または美学的メリットを重視する。

・・・というのがそれですね。これは人生をゲームと捉える考え方からは、かなり難しい選択肢ですが。しかし、たとえゲームは不可避だとしても、勝つことだけに意味があるのか、という問いかけには意味があると私は思います。

 ゲームに自分なりの美学を持って参加すること――ただ勝てばいいのではないからこそ、ゲームは楽しいのではないか?
 実は、今こそ「好きなものを自分で決められる知性と偏見に屈しない精神力」が必要とされる時代なのではないかと思いながら・・・。

 (恋愛ゲームを含めて)少なくともゲームには勝たなければ意味がないというあらゆる言説は、実は憂うべきものである「自己中心的で他者を蹂躙するようなDQN的傾向の跋扈」に与する考え方なのではないか、と疑問を投げかけて、ひとまず終わってみます。(*4)

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*3)
DQNという個人の適応形態の再評価――public spaceにおける暴力の復権(要約) より
*4)
相手の立場や考え方に配慮しない無遠慮な物言いというのはどこででも見かけるものですが、威圧や腕っ節(議論のそれも含めて)で対抗するというのは、不本意であっても得策ではないですね。
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