ニュータイプ論と見せかけて、実は・・・ 

[2006/07/10] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

「好きだぁー!サラ!」は実のところ新訳Zのラストに通じるものがあるんですよね。
本来二人だけの会話でなければならないものが周囲に筒抜け、しかし周囲はそれに対して温かく見守るだけ。こういう関係が最高なんじゃないか?という富野監督の最新のメッセージである気がします。
がんだまぁBlog 人類全てがニュータイプになったらどうなるか・その3 ルロイさんのコメント


 ルロイさんのところで「ニュータイプ」についての話を連載しておられて、面白いのでときどき話に加わらせていただいております。でも、わりときっちり設定系のシビアな話を毎回書いておられるので、「なんかノイズが混じるなぁー」と思われてるかもしれないんですけど。(笑)
 で、人類全部がニュータイプになってもそう簡単に戦争はなくならないという話ではレビル将軍の「ニュータイプというのは、戦争なんぞせんですむ人類のことだ」(勘が鋭いぐらいでニュータイプとは言えない)というセリフを思い出しました。まぁ提唱者であるジオン・ズム・ダイクンがどんな風に定義していたのか、よく分かりませんが、人が「種」として革新するとすれば、実現性はどうであっても、その抱えている最大の問題へのブレークスルーであってほしい(そこへまで至って欲しい)と願う気持ちは分かりますね。
 もうひとつ、「考えていることが相手に丸分かり」というのはどう考えても都合の悪いことも多いので、妨害する技術も研究されるだろう・・・という流れの中で、「キングゲイナーの中で、ゲイナー君がやった『好きだぁー、サラ!』の大告白」を思い出しました、・・・と私が書いた所で、冒頭のレスをいただいたという次第です。やっぱルロイさんは慧眼だ!!

 ところで(ここからが本題ですが、)「本来二人だけの・・・」とルロイさんも書いたし、ぶっちゃけゲイナー君の告白はこっちまで恥ずかしくなるわけなんですが、コメントの続きにも書いたように、『星の鼓動は愛』のサエグサ・レポート(笑)にまで話を繋げるというと、富野監督は男女の愛というのは、本来「コミュニティ」の暗黙の承認を受けることが望ましいと思っているふうですよね。
 あまり詳しい内容なんかは「誰が聞けるか!」ってことですけど、「ああ、こいつとこいつが連れ合いになってくのね、おめでとう」という素朴な祝福。個人として考えるんじゃなくて、それこそ「種」が存続していくために、連れ合いを見つけようとすることを皆の喜びとして共有できる気分。言われてみれば、恋愛がいつからか個人レベルのゲームみたいになっちゃっていることの問題というのは確かにあるんだと思う。

 結婚、つまり、性別が違う人と一緒に暮らすというのはもともとが折り合いが悪いものなのよ。それをなんとか定置をして、子供を生んで、家庭を維持して、なおかつ死ぬまで一緒だったりする。そういう他者と折り合いをつけて暮らしていくのが、結婚であり、人間であり、世の中なんです。(シャア専用ブログ - WPB2006年2月14日号 富野由悠季×矢口真里「監督さんと“恋バナ”をするのだッ♪)」


 この少し前に「現代の結婚は恋愛あってのものだと考えられている。まさに恋愛至上主義なんです。」という発言があるんですが、こういうのを読むと、御大はアンチ「恋愛至上主義」を推奨してますよね。(笑)

 「恋愛は神聖にして侵すべからず」的なイデオロギー(笑)の弊害は絶対にあると私も思います。例えばこの辺(narkoの日記 - オタクはなぜキモいのか? )を読めば、語るべき題材はいくらでも見つかります。

オタクは一般人が無意識にもつ恋愛至上主義を冒涜
→シミュレーションが現実を圧倒
→「恋愛」=広い意味での社会参加のためのチケット
→オタクは無意識にその恋愛至上主義という舞台から降りた
→だからオタクは「キモイ」と言われる


 長い長い内容の中で私の気になったところを要約するとこんなことですが、オタクを擁護するわけじゃないけど、間違った恋愛至上主義の犠牲者という面もあると思うのです。(筆者の方もアンチ主義者ですね。)
 舞台から降りたと言いますが、逆に恋愛神聖視の原理主義みたいになっちゃって、恋愛を「ゲーム」として楽しめないのがオタクという一面もあると思うのです。それを社会に参加する意思がないとみなされるって、どうなのかと。

 恋愛というのはもう少し下衆なものだと考えてもいいんじゃないか、それを下衆に扱ったと非難するのではなく、誰もが普通に持っている願望として、コミュニティはもっと素朴に祝福してもいいのではないか。
 別にニュータイプになれなくても、誰もが素朴に持っている願いだけでも互いに理解をしあうことで、要らぬ「心の壁」をひとつ取り除くことができたなら。大げさに言えば、そういうことの積み重ねで「戦争なんてしなくてすむ」世の中に近づいては行かないものでしょうかね~。
(おおっと強引にそこに繋いで終わるか・・・。笑)

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コメント

> いぢわるくまぜかいしますよ

このばやいの恋愛(てえか連れ合いと暮らす事)というのは、目の前の相手と向き合う事だと思います。
それを放棄しているという点で、やぱしちょと前向きじゃない感はある気がします。監督と矢口嬢の対談の中で「恋愛」と対比されているのは「見合い」であり、これはやっぱり「目の前の相手と向き合う事」なんですね。
だから、narkoさんからの引用の中の「恋愛」とはちょっと意味合いが違うんではないか、とは思います。

誰でも自分は好きです。そして、どんな相手でも相容れないところはあるものです。ただ、それをゲームとしてでも捉える事には、少なくとも誰かと共有したい欲求は芽生えるということです。
勿論それだって自己完結である可能性は否定出来ません。それでも、相手がいるというのは「少なくともその機会はある」という事です。

そこから降りる、というのは「自分しか愛さない」という事にも繋がりかねない。これは、単純に恋愛についてだけでなく、僕らが生きている世界、身の回りを支えている大勢の「間接的関係者(トマト農家とか電器屋さんとか電車の運転士とか)」についての想いが希薄になる事、自分の立ち位置が見えなくなる事への危惧に繋がります。

僕はこれを、決して大袈裟に捉えているつもりはありません。籠ったままで、ナマの世界に想いを巡らすのはとても難しい事なんですよ。そして、自分がどのように内的世界を構築しても、ナマの世界と完全に同期するのは不可能なんですよ。
外の世界と密接に関わっていたとしてもこのジレンマはつきまとう。でも、再調整の機会は多いに越した事ないんです。

もちろん、「恋愛」という形にこだわる事なく、外の世界に積極的に繋がる方策があるのならそれは尊重すべきだし、歓迎されて然るべきです。だから、バイリンガルである事は望ましい方向だと思います。
両立は決して不可能じゃないと、僕は信じます。

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