考え直してみます(富野監督の「芸能」) その2 

[2006/07/05] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 昨日はコピペだけで失礼しました。例えば東大生さんなら、その場でパッと聞いてすぐに理解できるのかもしれないんですが、私などは少し整理してみないとポイントがつかめません。そのため冗長ですが、自分用のメモを記してみます。

雨乞いとセクシュアリティーが確実に結びついていたときに、雨乞いの行為そのものの中からセクシュアリティーという部分が取り出されエンターテイメントに延長され、独立していくというプロセスが想像できます。それが「芸能」というものの成立に繋がっていったんではないのかな、という風に思います。


 文脈から、ここでは雨乞い=祭りと考えていいと思いますが、この部分は司会者が「祭りは生きていくために行われるものだから、命を生み出す性とも結びつくようになり、祭りの中のセクシュアリティーが芸能につながっていった。そしてさらに芸能の表現が分化していった、とお考えのわけですね」と、まとめてくれています。

・「祭り」――生きていくための衝動
・「セクシュアリティ」――性への衝動
 (生/性への希求は、相互に置き換え可能)
エンターテイメント」――祭りという行為から、
 生/性への衝動の部分を取り出して、独立していったもの
 (?→追記 ご参照ください

※祭りとセクシュアリティの関係については、「ドッキング」「結びつく」「要因として入ってくる」「密接に関係がある」「側面が張り付けられていく」という用語感覚では両者は基本的に「別もの」という認識であるが、「セクシュアリティーが喚起され、より豊かなセクシュアリティーと隣接していくことが祭りっていう行為になっていくんだろう」という時にはセクシュアリティが祭りの本源的動機に位置づけられているとも考えられ、表現にはブレがある点にも留意。

このエンターテイメントが「芸能」の成立に繋がっていく
 祭りという行為から、生/性への衝動の部分を
 エンターテイメント(の方向)へ延長して取り出して、
 独立していったもの=芸能成立の「原型」
※「繋がっていくもの」とは原型であり
 「エンターテイメント芸能」ではないと解釈

  ↓
・行事としての祭り――厳格な様式化
 (「トラディショナルな年寄り」による)
・芸能の部分――より淫らな方向のものも派生
 (=表現の分化)
  ↓
今日的な問題点
・芸能が復権化し意味も変わってしまう
 (復権化=権威化?←これは私の解釈です)
・このことを自意識を持って認識する必要
  ↓
その理由
・今日の日本社会の都市化した生活習慣の中では、
 性的なものを無自覚に露出させていく傾向がある
 (性的なものが生活空間の中に蔓延)
・生への希求と性への衝動が遊離し、相互置き換え不能に

※この部分は「セクシュアリティーをセクシャルなものだという風に認識してしまったときに、自分たちのコミュニティーが、種族が、部族が存続していかなければならないという危機感、切迫感は欠落」という部分についての私の解釈です。
 「セクシュアリティーという部分だけが取り出され、その享受が始まると…」と言っている場合には、生への希求と性への衝動(=セクシュアリティー)は既に遊離したものとして捉えられていると考えられ、祭りとセクシュアリティの関係についての表現のブレは、このあたり(本来あるべき姿とそうではない現況)に理由があるのではないでしょうか。


・「芸能」と「主義(イズム)」との止揚は可能か
 (対立する両者の高次な統合はできるのか)
  ↓
・「ありえない」(・・・あっさり! 笑)
  ↓
その理由
・イズムを出発点とした表現というのは所詮論文でしかない
・所詮、イデオロギーというのは100年持ち得ないかもしれない
・知性で塗り固めるというのは結局そのときの流行

※ここで「体感的に言う快感」「オーガズムに近いようなもの」と言われているものが、違う発言では「身体性」と表現されていると思われます。
 生への希求と性への衝動が遊離してしまった現在(またもうひとつは芸能が権威化し変質してしまった現在)、「芸能というシステム」は危機に瀕しているという現状認識がここにはあるものと思われます。
 その中で、「芸能」とは本来、相互に置き換え可能であるべき「生/性への希求」(=そういうような欲望)を喚起してカタルシスさせるシステムであり、だからこそ永遠に持続させなければならない。
 この永遠に持続させるべき重要課題の前では、100年も持たないだろうイズムやイデオロギーなどは問題ではないので、あっさりと「捨てた」と言い切っているように私は思いました。
 あるいは頻出するクリエイターの「公共性」という言葉も、この脈絡で再解釈する必要があるのでしょうか。


 あらためて読み返してみると、富野さんが使う「芸能」という言葉に対する私の理解の仕方には、これまで少し間違っていた点があったように思います。
 また、これはこの発言の時点での基本的考え方であり、次第に発言の意味する内容が重視するポイントにも変化があるかもしれないので、もう少しこのテーマは追ってみたいような気がします。

ブログランキング



にほんブログ村 トラックバックテーマ 富野由悠季を真面目に語るへ
富野由悠季を真面目に語る
追記:
上記の「エンターテイメント」の解釈はおかしいですね。こういう理解の仕方(「エンターテイメント」――祭りという行為から、生/性への衝動の部分を取り出して、独立していったもの)も無理すればできますが、

祭りという行為から、生/性への衝動の部分をエンターテイメント(の方向)へ延長して取り出して、独立していったもの=芸能成立の原型


と読むほうが、素直に正しいような気がしてきました。
 この場合、「エンターテイメント」の方向とは、普通に娯楽をより大きくするように、となりますか。ただ、生/性への希求の部分を娯楽要素として拡大するというと、意味をとるのはなかなか難しいですね。
 なお文中で、「衝動」という部分を一部「希求」と読み替えましたが、これは「性」は衝動でもよいが、「生」は希求としたほうがより分かりやすいかという私なりの解釈です。

 いずれにしても、もう少し他の例を読んでみる必要があるようです。
関連記事

この記事のはてブ はてブの数 livedoorクリップ クリップ数 Webスカウター情報

permalink | トラックバック(0) | コメント(0)

[tag] 富野由悠季 fc2ファビコン 芸能 fc2ファビコン エンターテイメント fc2ファビコン

TOP ▲

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/403-7b7a8e39