考え直してみます(富野監督の「芸能」) 

[2006/07/05] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 前回記事へのコメントで、富野監督のよく使う「芸能」という言葉の解釈について、一度落ち着いて考え直してみる必要を痛感しました。

 かなり「俺説」になっていた可能性も感じますので、少しさかのぼって富野発言を探してみたりして、勉強しなおしてみたいと思います。

 なのですみませんが、少しお時間をください。

 古いところだと、このへんですかね。あまりに長いので、今日は気になったところだけコピペしておきます。

【東大】富野由悠季講演会【五月祭】(2003年5月)

―監督は『∀ガンダム』以降、土地に根付いた『お祭り』というものを作品中に描いてこられました。『イントロダクション』では「祭りを現代に取り戻す必要が有る』などとおっしゃられていますが、現代社会に「祭り」を取り戻すには、どういった形が相応しいとお考えでしょうか。
 また「祭りとは性的なものであるともおっしゃられていて、現代はセクシュアリティーというものが過剰にタブー視されているということもおっしゃっていますが、これからの性のあるべき姿としては、どのようなものをかんがえていらっしゃいますか。

富野:あのさあ………一挙に全部聞くなよ!(笑)
 祭りとセクシュアリティーというのがドッキングしているだろうというのは、正確には勉強していませんから想像でしかお話しできないんですが、祭りの成立は基本的に性の衝動と結びつくのではないかなと考えてのことです。どうして祭りの成立が性の衝動と結びつくのかと言いますと、祭りは生きていくためにせねばならないという必要性があるからです。雨乞いひとつ考えたときに、これは生きていくための衝動が表現されているものなわけですから、その行為の中にセクシュアリティーの部分が要因として入ってくるのは、僕には容易に想像がつくわけです。そうしなければ、子孫が繁栄―繁栄じゃないですね、持続していくということさえ難しいわけですから、雨乞いという行為そのものがセクシュアリティーと密接に関係があるだろうと思ってます。
 そして、現在のようにはエンターテイメント的なものがなければないほど、つまり暮らしが素朴であればあるほど、雨乞いという行為をやることがとても特別なものになってくるわけです。それを何十年か何世代か続けていれば、雨乞いをするということが子孫の持続の願いであり、セクシュアリティー的な側面が張り付けれられていくということも、容易に想像できるわけです。で、雨乞いとセクシュアリティーが確実に結びついていたときに、雨乞いの行為そのものの中からセクシュアリティーという部分が取り出されエンターテイメントに延長され、独立していくというプロセスが想像できます。それが「芸能」というものの成立に繋がっていったんではないのかな、という風に思います。
 雨乞いというものすごく単純な問題で考えれば、それは豊穣の願いとか、一年間を無事に過ごす事ができた、次の春はいい春であってほしい、みたいな言葉とか認識が付け加わるほど、セクシュアリティーの喚起に繋がっていきます。セクシュアリティーが喚起され、より豊かなセクシュアリティーと隣接していくことが祭りっていう行為になっていくんだろう。そして、トラディショナルな年寄りは「いや、だけど行事は行事としてきちんと成立させていかなくちゃいけないんだから」と言うので、厳格な様式も生まれていくだろう、っていうことも分かります。だけども、芸能の部分ではより淫らな方向のものも派生していくだろう、っていうことも分かります。つまり、表現が分化されてくるということです。

―祭りは生きていくために行われるものだから、命を生み出す性とも結びつくようになり、祭りの中のセクシュアリティーが芸能につながっていった。そしてさらに芸能の表現が分化していった、とお考えのわけですね。

 芸能が復権化し意味も変わってしまうようなことが起こるということを、今、我々はかなり自意識を持って認識していかなくてはいけないのではないかな、という風に思ってます。どうしてかというと現代の我々、とくに今の日本の全部が都市化したような生活習慣を持ってる人間というのは、性的なものに対してかなり無自覚に露出させていく傾向があり、それら性的なものが皆さんがたの生活空間の中に蔓延しているわけです。で、そういうセクシュアリティーをセクシャルなものだという風に認識してしまったときに、自分たちのコミュニティーが、種族が、部族が存続していかなければならないという危機感、切迫感は欠落していきます。
 そして、セクシュアリティーという部分だけが取り出され、その享受が始まると基本的に動物として大変だらしがないヒトの形を生み出していくのではないかな、と思っています。


―今も触れられた「祭り」と「芸能」の関係について伺います。監督は物語作品の芸能的な側面を非常に強調されて、『キングゲイナー』ではそれを成功させたと思うのですが、一方で映画や小説の世界は、自分の主張・イデオロギーを理想主義的に作品内に込めていく物語作りを至上とする流れも長年、存在します。そうしたものに対する意見あるいは芸能と理想主義とのアウフへーベンのようなものは、何か考えておいででしょうか。

富野:僕は、アウフヘーベンはありえないと思います。というのは、イズムを出発点とした表現というのは所詮論文でしかないわけで、じゃあマルクス=レーニン主義、実存主義といったひとつのイズムが、100年も持ったか、それだけの話です。所詮、イデオロギーというのは100年持ち得ないかもしれないと考えます。どうしてかと言うと、知性で塗り固めるというのは結局そのときの流行ではないかな、という気がきわめてしてきたからです。
 といったときに、人間が一番支持するのは、体感的に言う快感でしかない。そうするとオーガズムも重要な要素なんだけど、オーガズムに近いようなものを体感、想像できるかもしれない、そういうような欲望を喚起してカタルシスさせる芸能というシステムは、人が永遠に手に入れ、持続させなければいけないことなんじゃないかなと思えてきたんで、イズムというものを捨てた、という言い方があります。



 東大生め、アウフヘーベンとか普通に使うなよなー。(汗
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