「工学的な知」=「メカ的なセンス」?(笑) 

[2006/06/20] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 「メカ的なセンスだけで成立する物語は一切ない」という富野御大の断言っぷりについて、昨日書いた続きになります。
 富野監督の発言は、「ひびのたわごと:21世紀への再生 その4」で読ませていただきましたが、メカは好き→ 映画にはメカ的要素が反映される→ ましてアニメは「実写以上にメカ的で、すべてを人工物でつくらなければならない」・・・と三段論法で持ってきておいて、「映画は物語ですから、メカ的な技術論だけでは作れません」とばっさりやっている。

・メカ的なセンスだけで成立する物語は一切ない
・綺麗なCGムービーだけが並んでいても映画になるかどうかは別物
・メカ好きだけでも、物語が好きなだけでも絶対つくれない

 メカ論の話柄から、映画論、アニメ論を経て、最後はもっと大きく、認識論の話までいっちゃっています。

今、アニメとか映画とかがどうこうではなく、日本人全部の感覚とか認識論が崩れている気がするんです。認識論をアニメでも再検証していかなければならない時期に来た、と。



 クリエイターの立場から日本人の感覚、認識論の崩れの再検証を言っておられるんですが、そういう内容について、学者さんたちはどんなことを言っているか。

人文科学は、これからも凋落の一途をたどるんじゃないかな。私たちの社会は、人文科学的な本質論なしで動くようにデザインされ始めている。というか、それしかないんですよ。
MIYADAI.com:宮台・東対談~『動物化するポストモダン』を読む~


 ・・・東浩紀がこう断言すれば、宮台真司は困惑が残ると言う。「確かに本質論はいらないというのは、事実的水準でテロリズムを抑止するための智恵です。でも智恵は学問とは違う。」(どうも学者さんの「智恵」と「学問」という用語の感覚は、私のような凡俗とは逆っぽかったりしますが。)

僕はすべての根幹には「工学的な知」の問題があると思うんです。産業革命以降、私たちの世界では工学的な知の重要性がどんどん上昇している。この二世紀のあいだ世界を変えたのは、実は文学部でも理学部でもない、工学部の力だったんですよ。そしてその力はいまも拡張し続けている。


 東氏が「工学的な知」と言った、それが御大の言う「メカ的なセンス」と同じものかなと私は感じたのですよ。ただその野放図な拡張は、富野監督としては「感覚、認識論の崩れ」だということのようです。
 「脳科学や認知科学が進んでいけば、私たちの意志や信念もエンジニアリング的に説明されていく可能性がある。・・・社会のデータベース化や主体の動物化という現象は、実はこういう変化の果てに生じているわけで、八〇年代や九〇年代といった枠組みよりも広い問題なんですね。だから僕は、それはもう止められないと思う。」という東氏と、「僕はこの破綻は徹底的にいくと思っています。」という富野監督で、見通しは一致しているようです。
 ただ東氏の理屈の方が説得力があるんですけど、それこそ皮膚感の部分で、「人間に便利な道具を与える価値はないのに、どうしてこういう道具を開発したのかという傲慢さしか見えてこないからです。」という富野さんの言葉には共感を覚えるんですよね。

違和感を覚える人々は確率的に出てくるでしょう。今後はそういう人々が哲学や思想を支えていくはずです。そこではいちおう、社会的なシステムへの「批判」がなされる。しかしそんな批判も、大局からすればデータベースの一部にすぎない。世界に違和感を覚える人々のために用意された、消費財のオプションにすぎない。


 東浩紀って、ほんとに頭のいい人みたいですね。現状の分析からすれば、彼の言うとおりなような気がします。ただね、それでいいのかなぁって。

エンジニアリング的思考と人間的営みとは──認知科学的な外的視点と文科系的な内的視点とは──表を辿ると裏に回り裏を辿ると表に回る「メビウスの輪」の関係になるしかなく、どちらかだけでは一貫できません。


 この宮台氏の反論は、富野さんの映画論と妙に通じていて面白かったです。

 学者さんの話は専門用語が多くて、私のように学のない人間には読むのが難しいんですが、富野由悠季という人を媒介にすると、なんか読めたような気になるから不思議だなぁ。(笑)

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