人間の「思考の欠陥」 

[2006/06/18] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

気になったのは、どこかへ動画をアップロードしても映像の製作者には収入がない=自分の好きな作品を作っている人の利益にならない、ということへの無理解が多すぎないか?という問題です。
(ラジヨさん)


 例のyoutubeの問題についてのコメントをいただきました。
 「作品を好き」で見ている人と、作品をネタに仲間とコミュニケーションが楽しければいい人の違いなのじゃないでしょうか。私たちはおおむね前者ですが、世の中には案外、後者のほうが多いということなのかもしれません。
 言われるとおり、WEBでアニメを配信するシステムは、うまく機能すれば、もっと低料金でもっと良質な作品を数多く紹介することができ、クリエイター側にも視聴者の側にも利益をもたらす福音になるんですけどね。こんなことをやっていたら、企業側はもっとあざとく儲ける方法を工夫してきて、悪循環になっていってしまうのではないかと残念です。

もしかすると、宮崎アニメが、ある意味で『「語りたい」意欲』を削いでしまうのでは、指摘のとおり、宮崎監督自身が、アニメ作品を「駄菓子屋の商売」とあきらめてしまっていることと密接な関係があるのかもしれません。


 宮崎監督への愛憎入り混じる思い(笑)を語ってしまったところへyasuakiさんからコメントをいただきました。「駄菓子屋」っていったいどういう意味で使われた言葉なんでしょうかね?

富野アニメでは、敵との戦いよりも、むしろ、仲間との内輪もめや、ライバル心が多く描かれます。
また、ひとつの国や民族が起こす戦いが、集団的なロジックではなく、個々人の様々な意識(嫉妬や、個人的な欲望や、利害など)の積み重ねにより、結果として、誰も意図していない方向に組織として展開していく様子がよくわかります。
(yasuakiの新批評空間:正しい解釈について


 富野アニメでは、組織と個人のせめぎあいがテーマとなるのに、宮崎アニメでは、組織はテーマとはならないのは、宮崎アニメでは、主人公は、常に組織から外れているから。なるほど。そしてそれは宮崎監督が背負ってきたものに由来することではないかと。
 確かに未来少年コナンでもルパン三世でも、主人公は組織では動きませんね。ナウシカもそうだ。組織から超然としているところがいいところなのですが、観念的になってしまいかねない部分でもあります。
 なのに宮崎アニメは、大衆の支持を受ける。
 「人間の思考能力には限界があり、個人の集合体としての組織をイメージすることは難しい」
 「人間の思考能力の特性として、無理やりにでもいくつかの事象に論理的な整合性をつけようという傾向」がある

 最近の宮崎監督は、この辺のことをよく理解していて、ちょっと突き放したところで作品を作っておられるということなのでしょうかね。私は「漫画映画」という言葉にこだわっていた宮崎監督も好きだったんですが・・・。
 それは富野監督が「大衆芸能」という表現で言うものともどこかで繋がっていたんじゃないかと思うんです。

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コメント

> そういえば

例えばターンエーだと、ディアナは組織の長でしたが、ディアナカウンターは、時にはディアナに対しクーデターまがいのことまでおこしている。またディアナはどうも過去の失恋という個人的な体験から、地球降下を行っていたようでもある。ターンエーとは観れば観るほどディアナが背負った業のようなものに、人々が振り回された物語のように思えた。

ナウシカあたりだとこういう感覚はなく、まるで偉人伝でも読んでいるよう。
風の谷では姫姉さまに反抗することなどありえない。また働き者で、人が忌み嫌う虫のことまで考えており、基本的に何でもでき、なにか超然とした雰囲気があり、個人的なことより、もっと大きなものに突き動かされているように見える。

同じお姫さまでも描かれ方がまるで違っており、ディアナにはある種の生身な心情を感じるが、ナウシカの行動には疑問が挟めるとも思えず、その行動を肯定するしかない強制力のようなものが感じられる。

宮崎作品が語り難いのは、きっとその辺りからくるのではないかと。

> 引用と盗作の境界

について。前回のラジヨさんのご意見には全面的に共感します。
何かを購入する、という行為は、作り手に対する応援の意味も含まれると思いますから。広義の意味での「海賊版」の横行というのは、その辺のやり取りを無視した「楽してズルする」的な卑怯さを確かに感じます。アップロードした当人に報酬がないというのはこの際問題ではありません。

書店業界には「立ち読みの黙認」という伝統があります。畢竟、全ての出版部をシュリンクすると全く内容確認が出来ず、購買にも差し障りが出るからですが、結局それぞれの顧客に判断はまかされている訳ですね。音楽業界ではメディアを通じて視聴の機会が与えられ、そこから購買のチャンスは広がる訳ですが(もっとも、そうするとメディアに乗り難いジャンルの音楽は広く売るチャンスを得難いジレンマもあるが)、印刷媒体ではそれが出来ない。いずれにせよユーザーの「一人一人」が相応の意識を持つべき問題だと思います。

映像業界の置かれる状況は、まさに音楽業界と近いものがあるように思います。巷の著作権問題については不透明に思われる部分もあり、全面的には共感出来ないのが個人的心情ですが、作り手が評価され、支援されるシステムを突き崩すような現状には不安を感じます。

> 連投宮崎アニメ

外部の個人が共同体の抗争に影響を与えるというのは、非常にマレビト信仰っぽいですね。ある意味でもっとも俯瞰の視点に立ちやすい。
(とりあえずここでは映画版ナウシカはスルー(汗)
共同体の中から英雄が育まれるのとは別のスタイルがそこには見られます。BASARAなんかは「ある意味」そういう英雄ですね。富野ヒーローもそうです。

外挿されるだけならアムロもゲイナーもそうですが、宮崎ヒーローは共同体からは終止超然としている。膠着した現状に、「新しい風」を吹き込む事によって局面を打開しようとします。

それは、ある意味では現状に対する絶望を含むのかもしれません。
人は無力だから群れる。けれど群れたところで各々が無力である事は変わらない。これは「力」だけでなく、「見渡す視界の広さ」にも当てはまる。

組織に根ざして行くなかで出来る最善を尽くそうとする富野ヒーローに対し、宮崎ヒーローは「あえて無責任」なスタンスで出来る最善を尽くすのでしょう。そしてそれは、「共同体に住まう事がないよそ者」、「半端者」としての弱さも併せ持つものである訳ですが。

また逆に言うと、「超然としたヒーロー」の描写は、卑近に傾くと「テロリスト」ともなりかねない。ぶっちゃけ「幽霊船」がそうですし、当事者同士の利害を超越する意味では単なる「第三勢力」に陥る危険も併せ持つ。下手に徒党を組むと「ナチス」みたいになってしまう。
だから、彼らは孤高を保たねばならない。

そうやって考えると、どう見てもナウシカは不自然なキャラクターに見える。族長の娘であり、はなから共同体に属していて、なのに超然としている。
肝心なのは、「蟲に優しい」彼女の優しさが、風の谷由来のものではないということ。蟲が異形であり、それに心寄せる彼女もまた異形に近い存在である事。
この部分が充分描かれなかった故に、「キレイキレイで浮世離れした」イメージが定着しているように思われてなりません。

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