宮崎さんにポストモダンは似合わない? 

[2006/06/04] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

宮崎作品のキャラって感情移入し難いからじゃないかなぁ。きっと監督の目線が観客と違うんですよ。


 皆さんのコメントにはいつも触発されます。(笑)
 宮崎アニメのキャラクターの「目線」は凄く計算されているというふうに聞きますが、たしかに監督自身はキャラクターに感情移入してるふうではないかも。(だからといって観客の目線とも重なり合ってはいないような。)前回も書きましたが、宮崎アニメは本当は難解だと私が思うのは、そういうこともあります。
 高尚っぽい宮崎監督論や押井監督論。たしかに少なくとも私には縁がないのですよねー。(深い関心がないと言うか・・・。笑)
 富野アニメで何故か元気付けられてしまう。はい。ぶっちゃけ私の関心などというのは、そこいらへんをぐるぐるしているばっかりですので。(笑)

 え、何々?そんな私なのに「ポストモダン」とか、難しい言葉に食いつかれちゃったら、困っちゃう~。(笑)

学問を通じて、人びとは唯一の真理と正義に向かって進歩していける、と信じていた時代、これが近代だった。いまでは、そんなことはもうだれも信じなくなっている。私たちはいま、ポスト・モダンの時代に生きているのである
近代(モダニティ)とは何か:社会メディア論]


 難しそうな解説はいっぱいあるんですけど、基本はこの「唯一の真理と正義」を認めるかどうかでいいんじゃないでしょうか。(「近代」をどう考えるか次第で、現代はポストモダンの時代ではなく、いまだ不完全な近代化の過程の中だという見方も強いようですが。)
 シシ神の森とタタラ場の双方に理を認めて、超越した絶対真理による胸のすくような解決がそこにはない、というようなことですよね。あれもこれも正しいとする立場は地に足が着いた話ではあるけれど、全体を見通した絶対者の視点はどこにも存在し得ない。
 だから富野さんは「愚衆」と口にしながらも、迷える立場のひとつひとつへと視線が降りているから、激しく感情移入して見ることが出来るんだけど、宮崎さんの場合は、唯一宮崎監督自身の視点だけは「絶対者」に近いのかもしれないんじゃないでしょうか。
 それで富野キャラクターのセリフはあっちへ行ったりこっちへ行ったりして難解なようで、個々には納得できる。それに対して宮崎キャラクターはわかりやすいことを話しているようで、実は難しい話だということがかえって読み取られにくい、のではないかと。(庵野さんは案外シンプルなことをとてもとても難しそうに言わせる天才なのかな? 笑)

 宮崎さんの理想と趣味の葛藤というのは、キレイゴトになりがちな表のテーマを外してみた場合に、ものすごく関心があるテーマですよね。かつては例えば『ゆうれい船』のミリタリー描写という趣味の影にこっそりと、街中に戦車が出現する風景の恐怖という理想が語られていたとも言えるでしょうか。最近はどうなのでしょう? 表向きは立派なテーマの影で趣味的なものがにじみ出ているとすれば、あまりよい傾向とは言いがたいですね。
 もし、もう「語るべきことは語った」ように見えてしまうのであれば、もはや老いてしまって世に対して言いたいことはないのか、表現が伝わることに絶望してしまったのか。絶対的な真理も正義もない時代だと言われたら、理想はおざなりでよくなってしまったのか?
 つまらん。モダン→ポストモダンなんてのは、まだまだ行ったり来たり循環するのじゃないのか? 学者さんたちじゃあるまいし、あまり自分だけ高尚にならないで、監督自身も地に足をつけて矛盾の中に真理のありかをもう少し探してみて欲しいんだ、私は!

 あー、最後は文句になってしまった。お分かりだと思いますが、嫌いじゃないから文句を言いたいんですよ。
 例えばね、「いかに生くべきか」という物語の問題をアニメ史で考えたときに、70年代『宇宙戦艦ヤマト』、80年代『機動戦士ガンダム』、90年代『新世紀エヴァンゲリオン』で語られてしまったりするでしょ。「第~次アニメ革命」みたいな言われ方もするこの3作品の共通項として「最初の予定どおりに制作する事ができず、えいや! と話をまとめようとした」と言うような指摘もあって、なるほどなぁと。
 こういう大げさに言えば日本の現代思想史とも言うべき中に、「世界に誇れる日本アニメの請負人」の作品がちっとも入ってこないってのはいったいどういうことなのよ、とは思いませんか?
 どうにもまとめようがなくなるほどのものを抱え込むことをせずに、あらかじめ計算できる形式の中で収まってしまっているのは、普通につまらんです。「世界に誇れる」なんてのは、お役所の好きそうな話に過ぎないと私は思う。その実力を「革命」の請負人(笑)に向けて、たまには「えいや!」と無茶をして欲しいものだと。
 
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コメント

> メディア

『エヴァンゲリオン』と『もののけ姫』で、二人ともアニメの肩書きが取れて「映画監督」になってしまったので違和感を感じています。過去に散見したインタビュー映像を見る限りでは「アニメの」が付いていたころの彼らとくらべて生気を失っているように見えて気の毒な感じさえします。

日本でメジャーになるということは、「本質は理解できないが、消費能力は大きい」人々の需要に応えるという義務とセットなのです。子供向けの裏をかいた時代のような自由さは逆に失われます。宮崎氏&庵野氏にあまり覇気を感じられず辛いので、お二方に関しては静観して、『リーンの翼』と『FLAG』に期待して過ごしています。

> そういえば

ヤマトもガンダムも打ち切り放映短縮、エヴァは本来あるべき最終回を放棄してしまうなど、それまでの常識を変えてしまうような作品は、まともに完結できなかったいびつな作品ばかりな訳ですね。

基本的にアニメーションとしての完成度を第一に考えていると思われる宮崎監督には、思い余って未完結な作品は見当たらない。だいたい丁度いいところで終わっており、時にはその後のことまで想像させるエンディングまでついていたりする。

多分、作品がそこで閉じてしまうから、ファンが参加するっていう感覚がないような気がする。

個人的に、例えば「もののけ姫」は劇中のことは思いを馳せることができるが、その後を想像するのは難しい。しかし先の3作品は、なんとなく彼らの「その後」も気になってしまう。(今だにF91の続きが気になったりする)

>

えーと、かつての宮崎ファンとして、一つ二つ。

『もののけ姫はこうして生まれた』という、もののけ姫製作中の宮崎監督に密着したルポの労著がありまして、それを読めばわかるのですが、宮崎監督もあの作品では終局の見えない物語の中で格闘していました。ラストをどうするのかわからぬまま、模索して作っていたのです。

また、宮崎監督には有名な逸話があって、絵コンテを描いている時に、キャラにのめり込むあまり涙を流したという。

宮崎監督も、だから頑張っているんだと思うんですけどね。
ただ、多分宮崎監督の方が不器用だったんだと思います。
富野監督は、自分が主張したいことは敵側に言わせるんですよね。「愚民なんか滅ぼしちゃえ」とか、「ノーブレス・オブリージ(高貴な者による統治)でやるしかないよ」とか、その時その時で正しいと思ったものを、必ず主人公とは逆側の人たちに言わせる。そうする事によって、変にメッセージ過多になり過ぎないで、エンターテインメントしながら言いたい事を言うっていうバランスを上手くとってたんでしょう。

宮崎監督はそういう風に出来なくて、むしろ「模索していくしかないよ」って正直にやりすぎちゃったんじゃないかなぁとか、思います。
ラピュタでムスカを殺して、「こんな風に悪役を殺しただけでメデタシメデタシってするのも、良くないよなぁ」って思ったら、それきりそういう冒険活劇も作れなくなっちゃった。それくらい本当は、馬鹿正直な人なんだと思うんですけどねぇ。

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