宮崎駿監督についての雑感 

[2006/06/03] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

こいつの考えてることって好きか嫌いかで言うと大嫌いっていうか馬鹿馬鹿しいにも程があるんだけど、映画つくる力は傑出してると思う。でも最近の映画は痛々しい文化人活動抜きに考えても「語りたい」って意欲が湧かないものが多い。愛着はないはずだけど少し寂しい。
惑星開発委員会 月刊レビュー2002年9月 今月のお題「宮崎駿」 善良な市民さんの宮崎作品総評より)


 古い記事を引っぱってきちゃいました。「今マニアが宮崎肯定するのって勇気がいるかもしれないけど、凄いものは凄い。」ということなので、力点は「映画つくる力は傑出」ということなんですよね。私は書生論大好きっ子(笑)で、かつマニア未満なので、大嫌いとも馬鹿馬鹿しいとも思わないんですけど、「語りたい」って意欲が湧かなくて少し寂しいというところは共感できてしまうのです。
 「宮崎作品はどちらかと言えば好きな方ですが、なんか客観的に観てしまうところがありますね。」(わんこさん)というコメントを読ませていただいて、自分もそうなんだが、それはどういうことなんだろうかと、少し考えてみたくなりました。
 と言って、宮崎作品について「語りたい」とあまり思わないし、例えばこういう文献をネットで見つけても、どうしたわけか熱心に読みたいという気持ちが起きてこない。これが富野アニメについてのものだったらガツガツと読み漁るわけで、こういう自分というのは、ただの偏愛なのだろうか、と。

もののけ姫では得意の空を飛ぶカタルシスをあえて禁欲しています。それは俯瞰的な視点を取れないポストモダンの状況と通底しているので説得力があります。徹底的に地を這う獣の怨念が、九十年代の閉塞感とエヴァのようにシンクロしていました。

しかし残念なことに、獣がベラベラ喋ることで、しかも声優が芸能人だったりして、途端に分かりやすい話になってしまいます。「ああ人間と自然との共存は難しいもんだね」とか。トトロも、ナウシカのオームも、ラピュタのロボットも、もちろんエヴァも、喋らなかった。内容としては抑圧された他者を描こうとしているのに、形式のレベルでは対等に喋れます。
萌え理論Blog-アニメ独自の表現について


 こういうのは読んでて面白いと思うのですが、その私の面白がりかたというのが、「そうだ、ブレンパワードは喋らなかったゾ」とかだったりするのですね。(笑)
 わんこさんは『未来少年コナン』のメカの話をしておられましたが、あれは私には少し不思議な存在で。『ゆうれい船』について書かれたこういうのを読むと、「漫画映画」と「アニメ」の境界というようなことをもう少し研究してみないといけないのだろうな、とは思っているのですが。(私自身が、この中で「1970年代後半のアニメブーム」と言われているものの直撃世代なので、視線に変なバイアスがかかっている可能性は強くあると自覚もしているのです。)
 夢やロマンと直結した「空想科学マンガ」的なものを「漫画映画」と称すのであれば、大衆をも引き付ける宮崎アニメの魅力というのは、アニメ史の中で「アニメ」寄りの「漫画映画」として位置づけられる、その地点に留まり続けているんじゃないだろうか、などとも妄想してみたり。(これは批判的な意味でではなく。・・・宮崎さんはアニメならぬ「漫画映画」という言葉に、まさに執着していた時期がある、という話も聞いたことがあります。)

こういう人間の本質みたいなものを据えた、自然と人間との関わり合いを描く映画を作りたいと思っています。それはメッセージというものでもなく、自分自身に回答が出ていないから、甚だ迷走しながら映画を作ったんです。
yasuakiの新批評空間-もののけ姫QA6:もののけ姫という作品のメッセージは何か


 回答の出ないものを迷走しながら作ろうとする姿勢は、富野さんとも共通していて、私は好きなんです。ただですね、『もののけ姫』という作品の思いは観客に伝わるか、という問いに対して、

思っていません。無理ですね。僕は、このアニメーション映画をつくる仕事を駄菓子屋の商売だと思っていますから。


・・・と言い切ってしまう。そういうところが私のような凡俗の「語りたい」意欲を削ぐ姿勢なのではないのかな、と感じられてならないのです。
 ひいきの引き倒しかもしれないし、人気度の点での判官びいきも無きにしも非ずかもしれませんが、それでも宮崎さんのボキャブラリーには存在しないだろう「愚衆」となどという言葉を使ってしまう富野さんのほうに、私がシンパシーを感じてしまうというのは、どうもたぶん、そんなようなことだと思います。

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 先日オンエアされた直後にyasuakiの新批評空間に『もののけ姫』論アップのお知らせが出ていて、もっと早く出したかったと書かれていたんですが、完全に忘れられた頃に書いてしまうのが、このブログの凄い所です。(笑)
 といって、世の中をまるで無視しているつもりではないのですけどね。吾ながら本当に時代遅れなやつです。
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コメント

> 多分

宮崎作品のキャラって感情移入し難いからじゃないかなぁ。きっと監督の目線が観客と違うんですよ。キャラには理想がでるけれど、メカには趣味がでるってところがあり、メカに惹かれるのはそんな部分からかも。

ところで、宮崎、押井監督論って妙に高尚な感じになりますね。読んでてよく分からなくなるような。

話は変わりますが、辛い時に富野監督作品をみると妙に勇気づけられるのはなんなんだろう?

>

>それは俯瞰的な視点を取れないポストモダンの状況と通底している
ポストモダンについて勉強し直します。
「あ~も言うけどこ~も言えるよね」という「視点の相対化」の事だと思ってたんで、俯瞰的な視点なんてそっからすぐじゃん、なんて思ってたのにorz

>「愚衆」となどという言葉を使ってしまう
俺はどうやら「富野も見る宮崎好き」という022さんと真逆のスタンスであるらしくw、「愚衆って俺の事かこのやろー、でもそうかもなorz」などと思ってしまうのでどっちもどっちです。てへへ。
両人ともに同じ「隔絶」に向き合っての発言なんでしょうねえ。

> かつての仲間の言葉と・・

美大時代、今でも本気でアニメーション作家を目指している仲間の言葉なのですが「宮崎駿のエロスは彼の映像作品に出てくるような完璧超人と同化したいという想いにあるんだ」と語っていました。

「その割にはキスとかセックスが出てこないね」と質問すると、

「セクシャルなシーンが出てこないからこそ、かえってその想いは増幅されてると思う」と返してくれました。

ラナとかナウシカやシータはきっと、彼にとっては「神と人の子」なのでしょう。それらを映像化した宮崎さんはもう、語るべきことは全て語っているのに制作を『やめる』という自由がないように見えます。皮肉にも全てを出した後に、世界に誇れる日本アニメの請負人に召し上げられたと捉えると、気の毒にも思えます。

> 宮崎アニメの自己規制?

トラックバックありがとうございます(時間たってしまいすいません)。
今回も、するどい指摘だなーと思いながら読ませていただきました。

もしかすると、宮崎アニメが、ある意味で『「語りたい」意欲』を削いでしまうのでは、指摘のとおり、宮崎監督自身が、アニメ作品を「駄菓子屋の商売」とあきらめてしまっていることと密接な関係があるのかもしれません。

ある意味で、宮崎監督は、アニメは結局「子供向け」と考えているのでしょう。それが、駄菓子屋商売というあきらめにつながり、表現もアニメ向きになり(庵野監督の批判でいう、パンツを脱いでいない)、語る意欲を削ぐものになるのかもしれません。

その証拠(?)に、宮崎監督が漫画を描くと、「漫画版ナウシカ」のように熱狂的なファンがつく(?)作品になります。

宮崎監督が昔書いたマンガの「砂漠の民」など読むと、話は悲惨だし救いはないし、子供も殺されるし・・宮崎監督も最初は自分のテーマ中心に作品を作っていたのでしょうが、それを何のために描くかという観点を踏まえたとき、子供向けの作品で、自分のテーマを語ってもしょうがないという認識になり、アニメでは完全に子供視点で作るように路線を決めたのかなという気はします。

考えていることは、富野監督と並び、非常に深いと思うのですが。

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