イデオンのことを思い出しました 

[2006/05/24] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 昨日はぼんやりーっとお風呂に入りながら、「無力感」ということの続きを考えていました。すると自然にイデオン(発動篇)のことが頭の中に浮かんできました。これが世代というやつでしょうかね?(笑)
 っていうか、他に考えなきゃならないことは山のようにあるのですが。(汗)

 どれほどに力の限りを尽くしても、何をしても「イデの手の平で踊っている」だけなのかもしれない、というのがイデオンの非情な物語でした。それどころか、やろうとすること何もかもが、「人間の業」に過ぎないのかもしれない、という残酷な事実さえ、目の前に突きつけられている。
 それでも、なんの甲斐があったのかも分からない「生」を抱えたそのままで、人々は(多くは無残極まりない)死を迎える最期のそのときまで、疑いながら、悩みながら、一人一人が懸命に自分の生を生きようとした。
 この作品は、そのことを、そのままに直視して認めている。イデオンという物語の比類なく感動的な部分は、さまざまなことはさておいても、私にとっては何よりそういうことなのだろうな、と強く強く思いました。

 希望もへったくれもない。嗚呼、本当にそうだ。

 だけど絶望という言葉を語るのは、実はとても簡単だけど、無力感という絶望の淵を覗き込みながら、その薄い薄いへりにしがみついて立とうとすることは、どうしようもなく困難極まりないことじゃあありませんか。
 ファン?富野さんがファンを裏切り続けていることは事実と思うけれど、同時にファンというやつらほど、富野さんを裏切り続けている存在もないのではないかということが頭をよぎります。(私もファンの一人であるのでしょうが。)

 『ブレンパワード』は本当に凄い作品だったと思う。主人公たちが懸命に生きたことに意味があったのか、そんなことにはなんの意味もなかったのか、全部置いてけぼりのままで、オルファンは銀河に旅立っていってしまった。そのこと。それこそがものすごい作品だったんじゃないかと私は思うんですよ。
 『新訳Ζ』を外形的に見れば、たしかに物足りなく思える部分があったのは、その部分が曖昧だったからなのかもしれないんだけど、よく考えてみれば、根本的にはこの作品の中で語られていることは、主人公たちが懸命に生きたというそのこと。それ以上でもそれ以下でもなんでもない。私には、実はそれだけで充分なのかもしれない。(新訳はそのことを多少なりと純粋にして見せる役割を果たしたと思う。)
 『ガンダム』だからいいんじゃないんです。ガンダムだから見ようという観客に恵まれなくたって、それでかまわないじゃないかって。だけど、それは人々を無視していることではないのだと。

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コメント

> オルファンはまだ

近くにいるんだと思う。あの物語ってみんな仲良くしようよってことだし、ヒメは最後までオルファンに語りかけていた。エヴァのように宇宙の果てに行ったわけではないと思う。まあ、ああいう終わり方なので、どうとでも解釈は可能かな。

最近イデオンを観てて、接触篇も意外に面白いのに気が付いた。当時は単なるダイジェストと思っていたけれど、これはこれで独特の雰囲気がある。ロッタのエピソードに妙に感動。

> こっちでいいかな、Zのラスト

思い出したんですけど、新約のラストって、物凄い勢いでカメラが引いていくんでしたよね?

人間焦点で描かれてた画面から、僕らは終劇とともに俯瞰の位置に引き戻される。逆に言えば、今度の映画化は、登場人物の視点だったんだな、と。いろんな意味で、「彼らの中に入って」それこそ彼らとつきあうというスタンスだったような気がしてきました。

でもって、敢えてGacktの不釣り合いな歌も、「物語は終わりだ。娑婆に帰れ」と送り出すための、それこそ画面とシンクロした演出と言うか監督の心遣いだったのかな、と。

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