新訳Ζの「エンターテイメント」 

[2005/08/31] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

nanariさんの「言葉にする力」は凄いですね。「THE END OF EVANGELION」を読んだときもそう思いました。私のつたない言葉で話がかみ合うのか不安なのですが。。。(この文は、この討論の続きで書いています。)

困難なコミュニケーションの可能性こそ、「Z」の肝


・・・なるほどと感服しました。それが「記号化できない『暗部』を描き続けることで」に賛同できるかが微妙なところです。

「暗部」は、怒りの表明される現場にあるというよりも、より本質的には、「怒り」の理由が分からないこと、それを表現できないということの内にあったはずで、その伝達不可能性において初めて「Z」という作品は、「キレる少年」という問題と、さらに現代の空気と、真に斬り結ぶはずだ。
http://d.hatena.ne.jp/nanari/20050829#p1


・・・TV版の予言したことは、そういうことだったと思いますし、その点であの時代に比類ない作品だったことにも同意できます。ただメッセージが鋭いものであることを認めることと、そのメッセージの内容を時代に対して「是」とすることは同義ではないとは、弱々しく反駁します。

劇場版のカミーユは、初見の観客の目にも「よく理由が分からないままに、怒り、焦燥し、キレていた」と映ったのでしょうか?これは主観が入る部分なので、判断が分かれてもやむないところかもしれません。
理由が分からないままに次々と押し寄せる現状は、劇場版では「観客=カミーユ」が共有できるものでしょう。ここでのカミーユはそのひどい状況の中で、焦りはしているでしょうがキレたいところをずいぶんこらえて、意外にも状況の把握に努めてはいなかったでしょうか?私はそのけなげなカミーユの姿に積極的に共感しましたし、だからこそラストシーンで伝説の英雄たちに接したカミーユの“言葉に出来ない”感動にも思わず涙ぐみました。…何でだかよく分からないまま。

言葉足らず、説明抜きに刻々と状況は押し寄せてくる。誰が状況をすべて理解して対応などできるものか。それは21世紀初頭の私たちの現実でもあります。けれど、頭だけで「怒り」へと短絡せずに、分からぬものは分からぬままでも、ひとは精一杯、現状と向き合うしなやかさを本来持てる生き物なのではないでしょうか。
(青臭いことを言いました。スミマセン。)
私は頭でっかちで、すぐ「怒り」へ短絡したカミーユの姿こそがTV版での「暗部」の象徴だったと思うのですが、今回まったく同じ状況に置かれながらも(まあそれは当然なのですが)、全身体的な感覚でそれと向き合っている劇場版のカミーユの姿には、正直驚かされました。
・・・「消毒」するまでもなく、頭だけですぐキレる子どもなど、今やそこらじゅうにいます。今、そんなものを入場料を払ってまで見る価値など、何かあるのでしょうか。それよりも耐えるカミーユの姿に自分を重ねてみる体験。普通に言うのとは違って聞こえるかもしれませんが、「エンターテイメント」とは単純にそんなことも含むのかもしれません。

今後も信じられないぐらい残酷なTV版のストーリーの上をあのカミーユは第三部まで生き抜かねばなりません。その筋書きには「誠実」なままで、しかし“違う見え方”が提示できないのであれば、それこそ何年も経て今さら旧作に向き合っている富野というモノ作りは、創作者としての資質を欠くと言われねばならないのではないでしょうか。

・・・彼ほど好きなことを言いながら、「好きなよう」に作れなかった屈辱の歴史を生きてきた作家も少ないでしょう。(それは「作らせてもらえなかった」環境だけでなく、個人プレイの限界で「作れなかった」面も当然あるでしょう。)それなのに相変わらずの“たかがロボットアニメ”で「伝達不可能性」に挑み続ける偉大なドンキホーテの姿こそが富野氏だと私は思うのです。

彼は失敗を明言するし、それは事実、彼が企図した大言壮語からすれば、彼にとっては明確に失敗なのです。そして新訳Ζも第三部まで終わってみれば、「失敗」である可能性だって十分にあります。ですが、∀ガンダム、キングゲイナーを経て今日ある富野氏の可能性は、「星を継ぐもの」に十分に見て取れました。うまく言えませんが、私の申し上げたいことは、そういうことです。
追記;
前回の記事に子犬さんの「ひびのたわごと」からトラックバックを頂いたので、こっちの記事から返させていただきました。
私もひとが書いたものに何かは言えちゃったりしますが、何もないところから語れるほどの立派なものでは到底ございません。私などは長い間ガンダムファンをお休みしていて、最近になって復活してきたようないい加減なヤツですので、苦難の時代をともに歩んでこられた皆様方からすれば、「調子のイイやつめ!」と怒られてもゴメンナサイをするしかない立場だと思っているのです。

またTV版「Z」のいわゆる「暗部」は富野監督からの警告以上の意味はなく、「新訳にはZの肝である暗部がない」「いやある」などとそれに囚われてしまうのは、それこそ「陰々滅滅としたものに惹かれる中二病気質」がなせる業といえるのではなかろうか?


ずっと富野信者を続けてきた子犬さんから、こういうお言葉を聞く。正直、胸が苦しくなります。もうお分かりかもしれませんが、私もね、じゅうぶんに情緒不安定なんです。「∀ガンダムで心底癒されました」とカミングアウトしちゃってるのなんて、世間から見たら「何言ってるの、このヲタクは。ヴァカぢゃない?」なんだとも思うんですよ。でもそれが真実なのだから、自分が人生で一番大きな影響を受けたのは「THE IDEON」で、何か信じていたものが空虚になってしまったのがTV版「Ζガンダム」だったんだと今さら認めるしかない。
今の世の中で「鬱々としている」のは、むしろ感性がまともなんじゃないんですか?ひとに何と思われようが、自分を癒せるものは自分で探すしかないと思うんですよね。私などは立派な批評などを書いてるつもりはさらさらなくて、ただ癒されたい!正直なありようはそれだけであります。
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コメント

> 癒し

癒し・・・。難しいですね。私自身は癒しの必要性を感じていないので・・・。
ただでも「暗部だの不安だのと言ったダークな部分だけがΖという作品の価値ではない」と思うんだけどなぁ・・・。そこだけを取り上げて云々するのは「なんか違う気がする」なぁ・・・。それとも「それ以外の部分は誰もが認める程よくなっている」から、議論するまでもないのかなぁ・・・。

> 「暗部」

・・・という言葉の理解の仕方が難しくなっている気がします。

A) 「暗部」=「怒り、焦燥」
B) 「暗部」=「記号化できないもの=名指しがたいもの=分からないもの」

AなのかBなのか。
Aの場合、劇場版でそれは除かれて残っていないのか、いまだ残っているのか。
Bの場合、それは「暗部」と呼ぶのが適切なのかどうか。また、それはTV版から既に存在していたものなのか。

少し私の身の丈を超える話に発展しつつあります。私こそドンキホーテ状態なのかもしれません。(笑)

> まさに

そのAからBへの読み替えが、僕がブログに書いた文章でやりたかったことだったわけです。つまり、「怒り、焦燥」が問題だといわれているけれど、より本質的には、その「怒り、焦燥」の理由が「分からない、記号化できない」ということを体現してしまったことの方が、「Z」の先駆性だったのではないか、ということです。
これ以上展開する準備はまだありません。ただ、「エンターテイメント」という言葉を、広く考え始めるという方向性は、正しいような気がしています(僕は富野監督の発言をそれほど追っているわけでもないので、今は「エンターテイメント」という言葉を無視するしかありませんでしたが)。

> 言葉は、

言葉は難しいですね。とりわけ御大の言うことは、映像以上に一筋縄ではないような。いちおうnanariさんの言葉を私が受け止める伝達は、なんとかうまくいったようで安心しました。コミュニケーションというのは発する人も受ける人も努力するのが普通だと思ってたのですが、昨今は受ける側に努力を求めないものが支持されるようなので、とまどいます。
いずれにしても「恋人たち」を楽しみにして待とうじゃありませんか。

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