スポンサーサイト 

[--/--/--] | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | TOP ▲

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「星を継ぐもの」批判への弱々しい反駁(笑) 

[2005/08/30] | 新訳Ζ | トラックバック(1) | コメント(8) | TOP ▲

新訳Ζ「星を継ぐもの」に対する、このnanariさんという人の鋭い感想が、目にとまってしまった。nanariさんのこの文章は、ササキバラさんのこの相当辛口な感想への違和感から書かれているらしい。

ササキバラさんの見方はこうである。

もともとのカミーユの激しさをテレビ版でよく知っている観客や作り手自身にとっては、それでもいいのかもしれない。そもそも富野監督の作る再編集劇場版は、だいたいいつもそんな「観客おいてけぼり」の情報圧縮ぶりなのだから、今さら始まったことでもないともいえる。


対して、nanariさんはこう反駁している。

・・・原作を知らない人間には理解できない速度で、説明抜きに観客にぶつけられる。こうした富野の説明不足の編集が奇妙な説得力をもってしまうということがあって、そうして生まれるフィルムの強度が彼を特別な監督にしているのだが、今回の劇場版はとくにその力をはっきりと感じた。



私のごときものは自分の体験に即したことしか言えないが、それで言うと「∀ガンダム」は劇場版からまず見て、TV版はその後から見ている。私に∀を勧めてくれたほとんどの人の評価は「TV版>劇場版」だったが、正直、私の印象は逆だった。これはたぶん出来不出来の話などではなくて、物語の先行きに何の先入観も持たず、最初に見たもののほうが単純にインパクトが強く、好印象が残っているというだけのことではなかったかと今は思っている。
多くのガンダムファンは劇場版Ζを見る準備としてTV版のΖを復習したようだが、私が何よりも見なければと思ったのは∀だったし、新訳解禁の前夜に見直したのは、なんと「THE IDEON」だった。

ササキバラさんが「85年に放映されたテレビアニメ『機動戦士Zガンダム』は、いろいろな意味でつらい作品だった。」というのに私は大いに共感できるし、それは誰よりも御大が感じていることだろう。だが、この論者が言うように、「可能性はその『つらさ』の中にこそ」本当にあったのだろうか?
nanariさんはスピード感のある表現手法は認めつつ「この奇妙な強度をもって、説明不足のままで観客にぶつけられる怒りと焦燥のなかに、『Z』の暗部が現れている(「表現されている」とは言うまい)と感じないでいることはできない。」と言うのだけれど、そうした感想は、まだTV版の重力に魂を囚われているために生まれてくる気がすると言ったら言い過ぎだろうか。
もちろん富野監督という「神」ならぬ「人」は、これまで何度も期待を裏切って見せてくれているので、指摘されているような暗黒面(笑)に陥る危険性は大きいと言わねばならないだろう。しかし、nanariさんが

今回の映画版はその「暗部」を切り捨てるどころか、その高速の編集によって、はるかに増幅してくれているのである。


と言っているのには、私はまったく共感できなかったな。
理解力を超えた凄いスピード感で観客に次々と何かが押し寄せてくる。それは「怒り」とか「焦燥」とかの言葉で、単純に記号化できるものではないと思うのだ。むしろ理解を超えたスピードそのものが重要であると言ってもよいのではないか?

私はTV版のことはほとんど忘れて劇場版に接した。そのおかげで、すごく素直に主人公カミーユに寄り添った視点に感情移入して物語を見ることが出来た。物語の成り行きは、カミーユの視点から見れば「その通り」で、理解に苦しむほどに急展開しているのが主人公をめぐる現況そのままなのである。

ササキバラさんの感想は、

結論としての「健やかさ」の提示を急くことなく、「健やかさ」へ向かって苦闘する泥沼の「Z」のドラマを新たに描き直すこと。それこそが、20年前にあのようなネガティブな感情をぶちまけながらドラマを作り、世の中に提示した者のなすべき新訳ではないのか。

と結ばれている。文字通りガンダムとともに歩んできた濃いガンダムファンなら、こういう意見はあってもおかしくないと思う。(だが濃いガンダムファンなら泥沼の苦闘が富野氏の中で既にあったことは、実はもう分かっていて、なぜか見えないふりをしているのではないか。)
nanariさんは

富野が「健やかなものを」とか、「エンターテイメントを」などと言いながら、現代に届く強度をもったフィルムを作ってくれるとき、この天才の自己認識のずれを非難しても面白くない。発言と作品が無関係だと言うのではないが、ともかく彼は好きなことを言いながら、好きなように作っていい作家だ。

と述べていて、もう少し突っ放した視点がここにはある。それはたぶんいいことである。

私がここで、それでもまだ欠けているのじゃないかと思うのは、富野という変わった人はたぶん、たとえどんな駄作を作っても、(良ければ良いなりに、悪ければ悪いなりに)盛り上がってくれるガンダムファンに向けてではなく、「世間」とかいう実体のはっきりしないもの(すなわち勝ち目もほとんどないもの)を対象にして、ドンキホーテのごとく本気で必死に何かを訴えかけようとしてるんだということへの視点、それだけである。
ダッテ、ソレッテ、カコワルーイ...?
「またキチガが電波な妄言を言ってるよ」と大多数のガンダムファンが聞き流して省みないあの言葉たちは、好きなことを勝手に言っている、ただそれだけのもの…なんだろうか?(まあそれも聞く人それぞれでいいんだな、きっと)
関連記事

コメント

> 困りました

どちらの言い分も判るんですよ。(どちらかと言えば、nanariさんのほうに共感しますけど)
私自身の感想は「ああ、やっとフィルムに魂が入ったな・・・」でした。
漠然とした意見ですみません。
TV版はただの絵の羅列にしか見えていなかったので・・・


> お二人ともね、

TV版にも見るべき良さがあった、という立場なのですよ、たぶん。かつ、それは「暗部」と称すべき部分だと。そこのところがおそらく今の監督にも、また私にも、受け入れがたい内容であるわけです。

> 好印象

だったんですね、私は。新訳Ζ。
逆に新訳Ζを観てからテレビ版を思い出すと、徒に冗長だった様な気がします。全く以て、ほとんどのフィルムが不要だった様な気がしてならない・・・。とはいえ「星を継ぐ者」が最適な長さだったかというと、これまたちょっと短すぎるきらいもあるのですが。

元ネタになったお二人の記事を読むと、この二人は「なぜそんなに不愉快になりたいのか?」と不思議な気がします。いやいや作らねばならなかった続編にぶちまけられた不満をなぜ観たいのか?金を払ってまで・・・。

私は「フォウ問題」も含めて観に行くつもりです、「恋人たち」。値段相応の楽しさを見せてもらえる様な気がするので。

> 分からなくもないんですよ、

毒気に満ちた「旧訳」(と言っていいのか?)を苦しみながら肯定してきた人たちが、そういう苦労なしで見れてしまう「新訳」が不快なのもね。ただ本来個人レベルであるべき、その不快さをメッセージとして広く発してしまうと言うのは、「旧訳」で御大がやってしまったそのまんまのこと。三部作の完結までで癒されることを願いますが、「ファンのために作っているのじゃない」と御大は言ってますから無理かもしれないですね。

> nanariです

なんだかあんな荒っぽい感想をとりあげていただいて、申し訳ない気持ちでいっぱいです。「『新訳』からは毒気が抜かれてしまった」という意見が割と定着してしまった感があって、ササキバラゴウさんの感想も基本的にはその方向で理解しているようにみえたのですが、僕はやはり「富野監督が何といっても、『新訳』にも毒気がある」と感じてしまったのです。その実感を、何とか書いておこうという程度の思いでした。やはりただのエンターテイメントにはなっていない、という感じがあったのです。
そこで、その「毒気」・「暗部」はどこにあったのかと考えてみたわけです。たしかに「旧約」でのカミーユの「怒り」とか「焦燥」は、結構カットされているのだけれど、それでも感じられてしまうこの「毒気」は、どこから発しているのだろうと考えたときに、少し視点を変えてみたのです。つまり、「Z」の「毒気」の核心は、登場人物たちの記号的な「怒り」の表現のなかにあるのではなくて、むしろ「怒り」や「焦燥」の理由がはっきりと相手に伝わらなかったり、理由が不十分のままに人がぶつかってしまうというコミュニケーション不全のなかにこそあったのではないか、と考えたのです。
「新訳」が、観客の理解力を超えた速度で、「Z」の物語を展開するとき、むしろこの登場人物の「怒り」の「理由の分からなさ」・「理解不可能性」という「暗部」が、増幅されていたのではないか、というのが僕が自分の実感に対して与えた証明でした。だから、「理解力を超えた凄いスピード感で観客に次々と何かが押し寄せてくる。それは「怒り」とか「焦燥」とかの言葉で、単純に記号化できるものではないと思うのだ。むしろ理解を超えたスピードそのものが重要であると言ってもよいのではないか? 」と言ってくださったことに、実は同意できると思っています。自分の思いを記号化できず、相手に伝えられないという状況が、「Z」の体現していた時代の「暗部」だとするならば、「新訳」の編集は、その記号化の不可能性自体を、フィルムにおいて増幅させていたように思うのです。

> いらっしゃいませ (戦々恐々...)

零細ブログにいきなりご本人の来臨で、こっそり書いたつもりが「滝汗」です。(笑)
遅まきながらトラックバックさせていただきました。ご了承ください。
「理解を超えるスピードで展開する状況」⇒「コミュニケーションの不全」というのが検討すべきポイントの核心ですね。しかし「記号化」できないことが、そのままイコール「相手に伝えられない」ことだとしてよいのかどうか。・・・少なくとも富野氏はそうではない可能性を確信し、そこに明確に賭けているように私には思えます。
逆に言えば記号化さえできれば、それで何かが伝わったような気になっていていいのか、ということでもあります。すべてが何かのメタファーとして「記号化」可能とさえ思える「エヴァ」を、氏が「是」としないのも、そういうことではないのかな、と。

> 少しずつですが

賛成できる部分と、やはり譲れない部分が明確になってきたようで、それはよいことなのでしょう。
「「記号化」できないことが、そのままイコール「相手に伝えられない」ことだとしてよいのかどうか。・・・少なくとも富野氏はそうではない可能性を確信し、そこに明確に賭けているように私には思えます」とのことですが、この点に関してはこちらの言葉の使い方がまずかったところがあって、実は大筋では同意できるように思います。上手く記号化できない、あるいは上手く表現できないということ(それを僕は「コミュニケーションの不全」と呼んだわけです)が伝わるだけでも、それはある種のコミュニケーション足りえるのでしょう。そして、登場人物たちが自分の感情を上手く表現できないという状況を見せ続けることで、監督は観客に何かを伝えようとしているように思えます。仰るとおり、僕は登場人物の「暗部」のなかに、「Z」の可能性を考えています。この記号化できない「暗部」を描き続けることで、監督が観客や世間に対して投げかけている困難なコミュニケーションの可能性こそ、「Z」の肝だと考えているわけです。
しかし、「お二人ともね、TV版にも見るべき良さがあった、という立場なのですよ、たぶん。かつ、それは「暗部」と称すべき部分だと。そこのところがおそらく今の監督にも、また私にも、受け入れがたい内容であるわけです」というところには、歩み寄れない相違点があるような気もします。TV版には、良さは無かったのでしょうか?あるいは、これは囚人022さんの意見とは異なるかもしれませんが、富野監督はTV版の「暗部」を否定して、「新訳」でエンターテイメントをやろうとしているだけなのでしょうか?すでに書いたように、そういう風な理解が定着しつつあるようで、それは危険だと感じています。「Z」という、一つの時代のなかで生まれた作品を、現在の視点からエンターテイメントにして作り直すことで「消毒」してしまうのは、TV版に対して誠実ではないでしょう。富野監督の「真意」などというものは、僕には分かりません。ただ、彼が「健全なものを」・「エンターテイメントを」作ると繰り返すことで、何かが隠蔽されてしまうとしたら、それは残念なことだと思うのです。だからこそ、引用していただいた文章で、「発言と作品が無関係だと言うのではないが、ともかく彼は好きなことを言いながら、好きなように作っていい作家だ」と、富野監督の発言と作品とを一旦切り離して考える可能性を示唆しておいたわけです(「発言と作品が無関係だと言うのではないが」という前半部も、もちろん重要な事実で、その関係性の検証は今後の課題として残ります)。

> 長くなりそうなので

続きは本文で書きます。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/34-662b5e1b

情緒不安定

下の書き込みもそうなのだが、最近どうも情緒不安定だ。今は(自分では)いたって正常だと思うのだが、いかんともしがたい感情に突き動かされてちょっとした事で「オイラはダメな人間だ。生きてる価値がない」と落ち込んだり、まるで中二病の頃のように周囲に憤って盗んだバ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。