分かり易い(分かり過ぎる)指標? 

[2006/05/08] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 Ζガンダムでのニュータイプの描かれ方について、「なまじスピリチュアルな描写があると、万能感が強すぎて共感しにくい」というところから、お話の続きを。
 SF的にどうかということを含め、この種の「論争」については、

それぞれの人が意識、無意識に抱えている 「こうであるはずだ」という前提、常識に縛られ過ぎてしまっている場合があります (というか、普通それを前提にしますが) 他人は違う背景を抱えていて それを前提に意見を言っているということを理解できない人は 耳を貸さない、硬直的な発言になりがちです。 おそらくは「正しい」ものを求めすぎる人が多いと思います。


という警句をいただきました。人それぞれの背景の違いは考えるように努めているつもりですが、自分が「耳を貸さない」状態になっていないかと自省もしつつ、話を続けてみたいと思います。

 「SF」という言い方を避けて、もう少し広く「絵空事」という言葉で考えてみましょうか。

われわれはそういう能力無しであらゆる思想を育んできたし、社会を築いてきました。それらの凡てが下らないものばかりでは、なかった筈なんですよ。「私達は、血を吐きつつくり返しくり返しその朝を越えてとぶ鳥」だと思うんですよ。


 もちろんそのとおりなので、大変良いことをおっしゃるなあと。
 ロボットものでもサイキックものでもいいんですが、「絵空事」の世界で現実にはあり得ない能力をバーチャル体験して爽快感を味わうだけのものなんだと割り切るんだったら、まあそれはそれだけのことで、老若男女を問わず、自分の趣味に合った楽しみ方をすれば良いのでしょうね。
 そこからもう一歩話を進めて、たとえば人間というものをどう考えるのかといったところに思いが至っているところで、その作品を大人になって振り返ってみるに足るものかどうかということになる。
 富野さんのアニメにはそういうものがあるんだ、という感覚を共有できているから、ここでこうやっていい年こいたオッサン同士で語り合えるのでありましょう。
 少し分かったような気がするのは、メカ(科学)の進歩というものはあり得る未来だけど、人間そのものの進歩(進化)というのはあり得ない未来じゃないのかという抵抗感があるということです。たしかにそうだ。
 「絵空事」の中で人間というものを扱うことに、もし意味があるとすれば、ある仮定された状況の中での人という存在を考えてみることで、その性質がより明快に浮かび出てくるということなのでしょうね。広くドキュメンタリーに対してフィクションというものはそういうもので、その仮定が空想科学に類すものをSFと呼んだりするのかな。
 そしてガンダムという作品は、科学が進歩した社会という仮定の下でも相変わらず人間というものは、戦争もやめられないし、政治はくだらないし、愚にもつかない感情に支配されて傷つけあい憎み合うことをやめられない生き物だと。
 それはまあ、それでいいんです。というか、それだけでも賞賛に値するという見方、あるいはその部分でしか成功していないという見方も正しいと思います。
 なのに、「どうしてニュータイプなんだろうか」ってことですよね。
 以下は私の勝手な想像なんですけど、ガンダムが世間から支持された中で、しかし多くの(大人を含めた)ファンは「科学が進歩したって人間なんて相変わらずなんだ」ということよりも、バーチャルな空想科学の世界の中でドンパチやる爽快感の方だけに入っていってしまったように思える。そうなると、科学の進歩を仮定したことが、まったく逆方向の意味を持ってしまう。それでも売れれば良いんだ、そんなものは「売るための方便」なんだ、と割り切れればいいんですけど、愚直にして割り切れなかったとした場合に、科学の進歩にもう一つ意味を与えなければならない、と考えたんじゃなかったのか。
 「もし科学の進歩が、人間の進化を促したなら、」というもう一つの仮定を付け加えた理由はそんなことじゃないかと私は思うのです。(明快な根拠は何もありませんけどね。)
 「戦争なんてしなくてすむ人類」というのは幻想ですが、あからさまに分かりやすい指標でもあります。そこまでハッキリ言葉にしないといけないのかっていうぐらいですが、ガンダムが、後続するダグラムやレイズナーと一線を画していたのは、少なくとも私にとってはそういう口幅ったいことを愚直なほど正面きって考える為のメディアとして、アニメというものには他にはない可能性があるな、ということだったように思うのです。(・・・それも「幻想」だったんだろうと、今にして思いますが。)

何が出来て何が出来ないのか。
共感能力が優れたもの達が、それでなお支配欲に支配され続けるのか。
個々の人格の根幹に莫大な影響を及ぼし得る変化を設定している筈なのに、それの使い手を、どうして凡俗の一番悪い部分にとらわれたものとして描くのか。


 まさにそういうことなんじゃないでしょうかね。そしてそれは、そうした課題を物語の受け手に考える契機として与えようというだけではなく、作り手自身も懸命に考えながらかろうじて提示されていたものなのではなかったのかと。
 ニュータイプの何が不快かといって、可能性という幻想を見せるだけ見せておいて、結論は「それでもやっぱり人は・・・」って、結局はまたそこかよ!ということなのだと私は思うのですが。でも物語が心の旅だったとして、出発した地点に最後には戻ってくるしかなかったにしても、旅したことそのものが意味がなかったことではない、とも思うのです。(口幅ったく、青臭い書生論! 笑)

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