洗練されきらぬ美味 

[2006/05/06] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 「まったりとニュータイプ談義」の続きをさらにまったーりと書き綴ってみたいと思います。

たしかに
ファーストってアムロとシャアの活躍で戦争が終わったって感じでもないですね。ZやZZは主人公がボスキャラを倒してお終いって形になってる。そのあたりがファーストとZシリーズの奥行きの差を生んでいたのかも。


というわんこさんのコメント
 最近気になる言葉、「セカイ系」でいうところの主人公やヒロインの全能感というやつ。それの正反対の位置にファーストは置かれるのかな、ということをふっと思いました。ただΖでも、カミーユがシロッコを倒して物語りは終わるけど、それで世界が救えるわけでもなんでもない。
 むしろファーストではニュータイプという、遠くかすかな希望を示して見せたのに対し、Ζではニュータイプになったって救いにはならないという残酷な現実を嫌になるぐらい見せ付けてくる。
 「奥行き」・・・。難しいですね。個人の力の限界を見せている点では、両者に差異はないか、むしろΖのほうが念がいっています。どうしようもない無力さの中で、「人にはそのぐらいしかできんのだ」ということをやってみせること、なのだと思うのですが。
 作品の制作年代から言って、ファーストの時代には未来への希望が語れたと思いますが、Ζの時代には未来への警鐘を鳴らすことの方が重要であったのかもしれず。しかしΖというのは、今だからそう見える部分もあって、・・・新訳Ζというものが、10年、20年先にどう見えてくるのか、ということに私はとても興味があります。

逆シャアのラストは劇場版ナウシカ並の奇跡でした。そこで思考が停止しちゃうんですよね。またそういう理屈を超えた部分が感動的でもあるんですが。


 ガンダムはSFじゃなくてロボットアニメだと私は最近思っているので、奇跡は全然OKなのです。多くの人はSFっぽさでヤマトを圧倒したガンダムに喝采を贈りましたが、どうも違うのじゃないかと。ニュータイプってのも一見SFっぽい概念で、ただ、巨大な人型ロボットが宇宙でも地上でも活躍する程度の粗雑なSFっぽさの枠組みの中でなら、「サイキックウォーズ」が出てくるぐらいは全然どうってことないだろうと思うのに。ミノフスキー粒子だとかAMBACだとかいうフェイクなどは、お約束として見て見ぬふりをしてたはずだのに、慣れてしまうと忘れてしまうんだろうか、とか。
 ハードなSFはロボットアニメよりハイカルチャーだというヒエラルキーは自明なものなんでしょうか。問題は中身のはずなのに、器の見栄えの善し悪しを語ってしまいはじめると、話がすれ違うということを最近ときどき思います。その状態がつまり「思考停止」で、私はむしろ、理屈を越えた部分で感動したことを話し合うのがお約束だと思っていたいほうです。

イデオンとエヴァって基本的に人が原初の姿になるってオチだったけれど、イデオンのコスモは、最後までそうならないよう戦ったのに対し、エヴァではシンジくんの望む世界となった。その後のそれぞれの主人公の表情が正反対なのは興味深いです。


 「・・・!」
 それかもしれないですね。人間は業の深い生き物だ、として、それを受け入れオノレの業と向き合いながら死ぬまでを精一杯生きるのか、そういうウザイ「生」から逃げ回って逃げ回って・・・でもエヴァの最後は結局向き合うのですかね?
 
 フェイクとか言ってしまいましたけど、難しいですよね。やっぱり美味そうにみえることだって、意味のないことじゃない。フェイクの形式美ってことだってあるんだろうと思う。
 でもあまたのフェイクを取り払った果てに舌の上に残るものの味わいを、私はやっぱり探してみたいと思ってしまう人のようです。

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コメント

>

「ガンダムはSFか?」
当時からSFファンの間では延々と議論されてきたことですが
馬鹿馬鹿しく思えたので関りませんでした
ハードSFにも科学的に間違った部分はありますし、結局「嘘をどれだけ納得させてくれるか」が1番大事だと思います
ロボットが戦っている時点で納得できない人もいるだろうし
私のようにニュータイプはファースト以上の事をされると「ガンダムの世界観に合っていない」と思う人もいるわけで

物語や世界観をよりもっともらしくする為の考証はありだと思いますが扱っている物の異なる作品間の優劣を競うのはどうかと思います

> 補足

イデオンのラストには、ブレン以後どうも引っ掛かるものを感じている。それは結局イデの手のひらで踊らされているだけの、偽りのハッピーエンドだったのではないかということ。

共生という結末を選んだブレンはイデオンと大分違う着地点を選んでいる。
それもこれもエヴァのラストにより富野作品の方向性が変わったためなんじゃなかろうか。

ZとZZって、どうも大人たちがまともに描かれていなかった部分がある。またファーストでは物語が駆け足じゃないからか、名も無いような脇役が細かい芝居をしている。それが奥行きを生んでいたんだと思う。やっぱり演出のできる安彦氏が関わっていたからなんでしょう。

> ずっと気になってた事

ファーストのシナリオ、本当はもっと最終決戦シーンが予定されてた、という話を聞いた事があるんですが、ガセでしょうか?

本放送時、視聴率の伸び悩みが問題視された、というのは本当らしいのですが、そのせいで、グラナダ経由でジオン本国への侵攻、ザビ家との対決なども本来描かれる予定だった部分が削られた、という記述を、どこかで読んだ事があるんです。

おおざっぱなシナリオ紹介によると、むしろ他の富野作品に見られるような、最終決戦に向けての新兵器のラッシュ、「巨悪」に向けて尖兵としての描写が強調される主人公達といった展開が見られる様子なんです。
それが、低視聴率を理由に放送期間の切り上げが決定され、いわば「帳尻を合わせる」ために作られたのが、我々のよく知っているあの終局だ、というのです。

俺にとっての富野作品は、せいぜい「海のトリトン」からTV版「Zガンダム」の冒頭程度までなのですが、この間に作られた作品群とこの「噂の真説ファースト」の親和性は、ずいぶんな説得力があるように思えたものです。

もしこれが本当の話なら、俺を含む「ガンダムを知る多くの人々」はむしろ、監督としてはイレギュラーに当たる作劇を「基準」として捉えている事にならないでしょうか?



あと、個人的にニュータイプ設定を好きになれない理由の一つとして、反証性の欠落を上げときます。
ロボだの戦艦だのが飛んだり跳ねたりする事については(出発が漫画的誇張であれ演出意図であれ)、ツッコミなり設定の遊びなり、受け手の好みに応じて判断の余地があると思うんですが、
なまじスピリチュアルな描写があると、万能感が強すぎて共感しにくい。ハガレンのように魔法技術として扱うならともかく(ま、それはそれで別物かもしれませんが)、じかに人間の触れ合いを描くのならそれ無しだって出来るだろうに、なんでそこに行っちゃうのか、という戸惑いが生じるんです。

現実世界でのスピリチュアルカルチャーの佇まいを見ても、どうも世界を捉える手段としては「楽してる」という感覚を捨てきる事が出来ない。
「いきなりマップ兵器を持ってこられちゃっても困るよなあ」というか、「マップ兵器だって言いはられても、こっちには効いてないんだけどなあ」というか。

何が出来て何が出来ないのか。
共感能力が優れたもの達が、それでなお支配欲に支配され続けるのか。
個々の人格の根幹に莫大な影響を及ぼし得る変化を設定している筈なのに、それの使い手を、どうして凡俗の一番悪い部分にとらわれたものとして描くのか。
魂そのものを描く手段とするなら、
なぜもっと向き合わないのか。
マンガ文法、と切り捨てるような表現をしたのは、都合よく描かれすぎる「思想」にいらだちを感じるからです。
…、てえことは、ようするに、022さんとは「めか」と「サイキ」の捉え方が反対だった、だけの事なのかもしれないっすね汗。


われわれはそういう能力無しであらゆる思想を育んできたし、社会を築いてきました。それらの凡てが下らないものばかりでは、なかった筈なんですよ。「私達は、血を吐きつつくり返しくり返しその朝を越えてとぶ鳥」だと思うんですよ。
それを無にするようなことを言われて、愚民扱いされてもなあ、こっちゃあオッさんになっちゃったし、もう共感出来んなあ、という気に、どうしてもなります。

>

 ニュータイプについては、色々微妙だなと思うのですけれど。

 確かに、巨大ロボットもニュータイプという概念も、怪しさの点では大同小異というのは一理あると思うのですが……「巨大ロボットものだよ」というウソは冒頭の、ザクがサイド7に侵入するシーンから、「そういうウソをこれから吐くよ」っていう宣言がされているのに対して、ニュータイプは物語後半になって、唐突に出てきたものです(映画版ではフォローされてますが、それでも唐突)。
 ララァ・スンだって突然物語りに現れて、いわばヒロインの位置に居座っちゃった人だし。
 というか、そもそも初登場時のララァはどう見ても、ただの電波な人ですし(笑)。
 その辺が、後々まで尾を引いてるんじゃないかなっていう気はします。

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