「男の子いかに生くべきか」 

[2006/03/26] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 Ζガンダムの物語を“ビルドゥングスロマン”という切り口から考えるということで、にわか勉強のための参考図書は、予告どおり高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)。とりあえず、第一章「教養、あるいは「男の子いかに生くべきか」」に目を通しました。少しずつまとめておかないと、まとめようがなくなるので、とりあえず消化不良で申し訳ないですが、メモ程度です。(嘘です。長ーいです。)

 ビルドゥングスロマンという時に、「教養小説」という定訳ではなく、カタカナ(ドイツ語)をよくもってくるのは、“教養”という用語にしみこんでいるイメージを避けるためにちがいないとされています。
「若者がさまざまな困難を切り抜け、
 さまざまな人に出会い、
 男へと成長していく物語」

という定義を、ひとまずもう一度確認。

 できれば避けて通りたいぐらい“教養”の明確な定義づけは難しいようですが、“専門”の反対語の意味から捉えられるニュアンスは、非実用的な性格でしょうか。この本では、教養そのものではなく、“教養についての言説”をみていくという立場なのですが、「教養主義的」という言葉は「今ではほとんど侮蔑語」だと述べられているところは一つのチェックポイントだと思いました。

 教養の目指すところは「自己形成」だと言われます。つまり自分自身を作りあげる(いかに生くべきかを考え、いかに生きるかを決める)のは、ほかならぬ自分自身というわけです。これは、人間がその人格というものを認められ解放されていて、はじめて言えることなので、「教養は何より解放の思想」という言い方が生まれるんだとか。
 日本では教養の理念は、近代化と共にドイツからもたらされましたが、古典語や哲学を広く、専門にとらわれず学ぶことによって自分自身を作りあげてゆくというその方法論は、時代の変化の中で“教養主義批判”というかたちで新しい教養論が示されながら少しずつ変化してきた、ということのようですね。(「無邪気に教養主義が唱えられた時代は一度もなかった、といってよい」)

 そのあたりの歴史的な話は省略しますが、「青春の終焉」「教養主義の没落」といわれた1970年(大学紛争)以降の現状は見なければならないですね。
 「若い人々が、たとえ努力主義や進歩信仰や西洋崇拝や大きな物語に興味を示さなくなったとしても、いかに生きるかということ自体を考えなくなったわけではないのは、日常レベルでは確認でき」、「自分探し、自己実現、自分らしさ」はむしろ強迫観念にまでなっているということです。「かつては強者にのみ与えられた試練であったものが、現在では、広くわれわれを脅かしている」とも言います。

 「かつては強者にのみ与えられた試練」という意味は、日本型の教養主義が、とりわけ戦前の旧制高等学校を舞台に語られてきた歴史に由来します。『君たちはどう生きるか』の「君たち」は、少数の特権的エリートに向けられた言葉であったものが、それだけを対象にするものではなくなったのが、つまりは教養(主義)の衰退である、というわけです。
 ここでひとつ面白いなと思った指摘は、ここではそれなりに才能のある(逆に言えば“それなりの才能”しかない)少数の男の子たちが、いかに生きるかが問題とされてきたのであって、「突出した才能に恵まれた男の子(この場合は女の子でもよい)には、まったく関係ない」というもの。なるほど!

 日本的な教養主義の土台を再確認すると、学歴社会の中でエリートとは「受験勝者」を意味するのですが、そこで彼らがもう一段上の自己形成を目指す誠実さを持つならば、自分がたんなる勉強ができるだけの優等生ではないことを、自分自身にも他人にも示さなければならないということであると。
 つまり「秀才」と「優等生」は、日本では侮蔑語だというのです。
 
 「人格陶冶」や「自己形成」という言葉から俗人たちが連想するものは高潔な人格ですが、エリートにとっては規定のレール上を走るだけではない自分なりの生き方の発見ということになりますので、「現在では、強烈な個性といったほうが、分かりやすいかもしれない。」
 というわけで、教養主義と蛮カラ、志士の精神と享楽主義、マルクス主義と体育会系といった、一見相反するような要素が、「僕は単なる優等生ではない」という一点から生じてくるわけです。

 カミーユの物語に即して言えば、リアルロボットものの原理主義者の皆さんは、アムロやカミーユが、ガンダムの開発者の息子である点を気に入らないと時々おっしゃいますよね。主人公が主役ロボットの開発者の息子という構図は、スーパーロボットものの王道パターンだったりします。それは確かに特権的ポジションなのですが、そうであるがために彼はその運命から逃れることが出来ないという意味では、特権エリートなればこその義務を負ったと見るべきかもしれない。(※これは、そういう構造にする意図であったのか、主人公を主役メカに乗せるための方便がたまたまそういう構造にあたったのかは分かりませんが。)
 あるいは、もうひとつリアル路線主義者に嫌われる“ニュータイプ”という概念も、エリートなればこその特権と義務と見ることが可能かもしれません。役回りとしては、勉強が出来るだけの典型的優等生としてのジェリド、突出した天才としてのシロッコなどの見方もあるでしょう。
 
 この本の中では『新教養主義宣言』の著者である山形浩生が山本義隆(元・東大全共闘代表=特権エリートの自己否定の実践者)の『磁力と重力の発見』を絶賛したエピソードが紹介されています。「物理は一つの世界観で、各種の数式はその世界での因果律の表現だということを、かれは(たかが受験勉強で!)みっちりたたき込んでくれたのだった」というその文章を、私は今、富野アニメに対して、「アニメは一つの世界観で、各登場人物はその世界での因果律の表現だと言うことを、かれは(たかがロボットアニメで!)みっちりたたき込んでくれたのだった」と言い換えることができますか、ということになるのでしょうかね?

Ζガンダム以降、キングゲイナーまで「少年が大人の導きで男になる」というビルドゥングスロマンを、正当に描くことに失敗し続けているのが面白い。今回のΖガンダム劇場版は、それにカミーユといういたく90年代以降の少年像を据えた上で成功するかどうかに挑戦をしているという点で興味深い。

さて次の企画は 「Ζガンダム劇場版で見る富野と宮崎の教育観の違い


 この話はもともと、この文を読んで、「正当なビルドゥングスロマンって何だろうか?」と思った素朴な疑問から考えはじめたものです。

 この視点から考えると、例えばホワイトベースやアーガマの艦内の人間模様には、軍艦のリアリティ描写からは外れているかに思える部分があります。これを「常識的俗物性」を徹底的に排除しようとした「閉じられた社会」(「旧制高等学校の寮生活」になぞらえうるような?)として、「青春の自己形成のために無理やりにも作られねばならなかった」空間として描かれたと解釈できるのかどうか。これは少し難があるような気がします。

 一方、もうちょっと分かりやすく当てはまるのは、「故郷、地縁、血縁といった紐帯を一旦断ち切る」(同時に自分自身の手で、友人関係や師弟関係という新たな結びつきを作り出す)ことが、自分自身による自己形成の第一歩だというポイント。これは、ど真ん中ストライクですね。

 実は旧制高等学校をめぐる教養の話では、超エリート校だった第一高校の生徒の“動機なき自殺”の問題に大幅な紙数を割いて触れられています。「或る青春の象徴」「この青春という健康な病いを果まで辿った彼の生き方」は、『君たちはどう生きるか』の教養論にとって実にかなり難しい問題であったようです。カミーユの精神崩壊を今も支持する人がいるというのは、本来はこのような観点から考えねばならないのかもしれません。

 教養論の話は、「おたく」的な問題とも関係あると思うのですが、例えば秀才なのに、(大衆文化にも馴染んでいて)話のわかる奴との評判をとろうとする態度は「二重戦略」と言われています。
 「難解な哲学書を読むふりをすることは受験勝者の仲間内で、僕はたんなる受験秀才じゃないを誇示しあう方法であり、難解な哲学書なんか知らないふりをすることは、外部の世間にたいして、ぼかぁ冷たい優等生じゃありませんよと媚びる態度」ということで、それ自体否定はされていませんが、次のような断罪は耳が痛い。

問題なのは、「友人との交際」も含めた人間関係のなかで、うまく世渡りしていくことができる技術だけを求めている、その迎合的態度の卑小さだ



 自分自身は他者の承認によってしか確認できない(他者からどう見えるか)ということは重要な問題で、『星の鼓動は愛』のラストでも、カミーユのありようを全員が承認するような意味で、あのカーテンコールのような場面は必要だったと富野監督も言っておられます。
 富野さん自身の教養主義的な立ち位置が、私にはまだよく分からないというのが正直な今の感想で、大衆蔑視のエリート主義が1960年代の高度成長を経た大衆社会(昭和元禄の国民総阿波踊り)の登場で効力を失っていることはよくよくご存知な中で、他者との建設的な関係を取り結ぶことのできる、伸びやかで健全な普通人(人と人が結び合う具体的な場としての世間の中で、世間を変えてゆく位置にたち、何らかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人)のような、教養人の理想めいたことを口にされる。

 第一章「教養、あるいは「男の子いかに生くべきか」」の結びは、かつてのエリートの特権は、「地位・名誉・富」ではなく、「人類・歴史・社会全体に対する使命感・責任感」を独占してきたことだったと述べ、価値の多元化、相対化と情報量の加速度的増大によって「エリートってのはせっせと頑張って働いてご苦労なことだなあ、などと、マイホーム的しあわせの中からむしろエリートを憐れんで眺めるような感覚が生まれてくる」時代の問題を考えています。
 使命感・責任感あればこそ「いかに生くべきか」と人間らしく充実して生きることを思う。これを、われわれすべてが、お互いに、「生きがい」を持つための特権をあきらめる我慢をしている状況と捉えるとき、「逆に、より一層強烈で粗野な使命感・責任感への総なだれ現象―ひとまわり巨大なヒットラー的人間への共感―を導くことになるかもしれない」のではないのか、という危機感の表明です。

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 第一章のラストワードは下記ですが、富野監督のことを考えながら読んできて、最後にこの言葉に出会うとは! 思わず苦笑いをしてしまいました。

現在では、「男の子いかに生くべきか」などと、若い学歴エリートたちに語りかけ、「生きがい」を提供してくれるような教祖様や社会学者、それに教養論には、まずは要注意なのである。


いや、皆さん、要注意ということで。そこのところ、どうぞよろしくです。
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> ご、ゴメン・・・。

難しすぎる字が並んでたから、読み飛ばしちゃった・・・。

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(´~`;)

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