シャアの話 

[2006/03/19] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

先日、Ζガンダムの物語の中で、カミーユもまた富野監督の感情のひとつの分身として見ることが出来るという話をしました。(シャアやアムロがそうだというのが前提。)
特にファーストガンダムを絶対視する視点に縛られていると、(私もそうでしたが、)この物語はカミーユの物語であるのに、シャア(=クワトロ)中心に読みかえられてしまうことが多々ある。ここは押さえておくべきポイントですよね。
その上で、今日はシャア中心の視点の話。

シロッコの“ジ・オ”や、ハマーンの“キュベレイ”というモンスター級の敵モビルスーツたちに対し、旧型とは言えぬまでも、ガンダムの出来損ないではある愛機“百式”を駆って、腕も足も折られてボロボロになりながらも、最後の最後まであきらめることなく闘い続けたシャア。パイロットとして超一流の腕を持ちながら、「ニュータイプのなりそこない」と言われてしまう男。
人として、とても優れた資質を備えているのに、例えば普通に恋愛などの人間関係の築き方を学ぶべき時期をザビ家への復讐に没入してしまったために、そうした部分では不器用さを隠せない、そんなかわいそうな人でもある。

彼もまた、間違いなく富野監督の一分身。(・・・と私は思っています。)

一見したところではカリスマであり、無敵のスーパーエースであって、第一部の終了時点ではまごう事なき“英雄”以外の何者にも見えなかったシャア・アズナブルという人。人々という愚民はヒーローの復活こそを期待するもので、『星を継ぐ者』の新訳Ζは、その期待に応えるものであるかに見えました。
しかしスーパーヒーローであって欲しいというのは、無責任な愚衆の願望でしかないのであって、シャアはシャアで自分の立場と能力をはかりにかけながら、苦しみ悩みつつ、できることを精一杯やるしかない。
ヒーローという虚像を期待しながら彼を見ていた人々には、結局期待に応えられなかった不満があるのでしょう。思いが強ければ、あるいは「修正してやる!」ってぶん殴ってやりたくなるのかもしれない。でも少なくとも今回のカミーユは、それをしなかった。
素直に今回のカミーユの視点から物語を洞察すると、カミーユはシャアに過大な期待を持たないし、シャアというキャラクターも、英雄ならぬひとりの人として、持てる限りの力を尽くして状況に立ち向かっている。そう思いながら、『星の鼓動は愛』でのシャアの最後の闘いを見ていると、涙が出そうになります。

“ガンダム”という枠に捕らわれずに富野作品の系譜の中で見ていくと、はじめ導くものクワトロ・バジーナと、のち指導者を超えて行くものカミーユ・ビダンの関係は、近作の中では『キングゲイナー』の中でのゲイン・ビジョウとゲイナー・サンガの関係に、著しく近似しています。(ゲインは実は亡国の王子だったというところまで同じ。)
『キングゲイナー』を観たことのない“ガンダム”だけのファンも少なくないと思いますが、新訳Ζでのシャアの描かれ方に納得がいかない向きは、ぜひご覧になっていただきたい、富野監督らしさにあふれた傑作です。
・・・傑作ですと言いながら正直な話、キンゲのラストでのゲインの描かれ方に、私は不満を感じたものですが(後述)、今、新訳Ζを見た目で改めてキングゲイナーの最終回を見直してみたい気が沸き起こってきています。

モンスター級の敵(ラスボス)に立ち向かうゲインの愛機“エンペランザ”は“百式”以上のおんぼろ寄せ集め。しかも相棒たるゲイナーは敵側に取り込まれてしまっているという(Ζ以上に)絶望的な状況。その中で愛機をボロボロにされながら闘い続けるゲインの姿は、Ζ終盤でのクワトロ(=シャア)の描写とオーバーラップして見えます。
私がこの『キングゲイナー』のラストで不満なのは、ゲインは富野監督の分身に思えますが、ゲイナーは監督が育ててきた後進たちの象徴としか思われなかったことで、後進たちのために道を拓き、指し示すことで、ゲインはその役割を果たし終えてしまったかに思えたことでした。
これに比べると、新訳Ζガンダムのカミーユは、富野監督の一分身と思えますから、シャアが死力を尽くして敗れ去っても、監督が“自分の力”で物語の幕を引いたという意味では納得が行くような気はします。(自分ひとりの力というだけではなく、「俺の体をみんなに貸すぞ!」ということができる・・・それもまた“自分の力”だということですね。)20年という時代と、『キングゲイナー』などの制作を経て、今ようやくこのセリフが活きたのではないかと思えば、なんだかうれしくなります。

ただね、例えば(この物語でシャアにそうした死が与えられることは、今の監督として、まったくあり得ない話なんだけども、)この闘いの中でシャアの死が表現されていたならば、最後にカミーユに“力”を貸す人(霊?)たちの中にシャアがいてもよかったという妄想が私の中にはあったりします。あるいは『逆襲のシャア』に持ち込まれてもいいんだけど、最後の瞬間、アクシズを押し戻そうとして集まった意思の中に、シャア自身の意思もあったことにしてほしい。
「ガンダム三部作+新訳Ζ三部作+逆シャア」で劇場版全7作のサーガだという言い方をしたりするようだけども、シャアという人物に、きちんとした死に場所を与えてやらないと、“ガンダム”という物語世界の環はきれいに閉じきれないのではないのだろうか?
『ΖΖ』というのは、テレビの『Ζ』を補完するために作られたもので、「足して2で割れば」というようなわけには行かなかったわけだけど、その存在した意義は新訳Ζの中で充分に活きていると思います。過去作(宇宙世紀年表?)の辻褄あわせに捕らわれる必要はまったくないので、新訳ΖΖなど要らないと私は思いますが、シャアに“あるべき死に場所”を与えるという意味で、新訳『逆襲のシャア』ならば、あってもおかしくないような気はします。

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コメント

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よくぞ、言っていただきました(^。^)
ファーストに視点のウエイトを傾けている人にとっては納得し難い「シャア・アズナブル」像だと思いますが、限られた時間の中の劇場版Zガンダムを少年、青年達の群像劇と捉え、その中の中心人物の一人としてシャアを見るのと、カミーユ・ビダンという一人の少年の視点から考えた劇場版Zガンダムとではシャアの扱いが異なってくるのは当然です。
 主要キャラクターの中の一人という立場でしたが、彼の扱いを「孤高のMSパイロット」として描いてくれ、最後までその矜持を保ってくれたことを嬉しく思います。
今にして思うと、最後の百式の残がいから脱出したと思われるカラのコクピットを見せるシーンは無くてよかったと思います。あのスーパーヒーローの「シャア」が逃げ出した、などという演出など不必要で、視聴者がどうなったか、自分で考える余地を残すだけで良いわけですよ。
 それで、「逆シャア」を見て、「私、シャア・アズナブルが粛清するというのだ!アムロ!」と出てくれた方が「あっ!やはりシャアは生きていたのだ!」となって格好良さが倍加するじゃないですか(^。^)
普通の地味な「クワトロ・バジーナ」こそ、劇場版Zのよさの一つですよ。

> CCAの話になりますが。

 「語ろうΖ」だと、ゲインとゲイナーは新訳クワトロとカミーユの試行ということだったようですね。
 個人的には、CCAを見に行くことはシャアの死に水を取りにいくことだと思っていたので、例の「ララァは私の母に~」を聞いたときには、あ、この人自分の死と引き換えにようやく自分の本音が言えたんだね。良かった良かった。と思えて、それで満たされてしまいました。なので“あるべき死に場所”はそこにあると思えるので、CCAが7部作完結編とすれば自分にはそれで充分です。
 ただCCAって結局は、シャアがアムロを無理心中に付き合わせてるだけの話なんで、カミーユの「僕も貴方を信じますから」に対する答えがこれかよ。と思うと頭痛くなるもので、最近は見返してません。あと以前こちらで展開されていたお話ですが、イデオンからエルガイムの流れを汲んだΖやその直系のCCAはファンタジーだと思ってますんで、ラストの超常現象も全くもって気になりません(^^; つかあれを使わなかったり、そこに理屈を求めたりしてたら映画終わらないよなぁと思うので、そこに疑問を挟む方が寧ろ意外でした。

>

まったくありえない話と書いたのは、超常現象(笑)のことではなくて、シャアがこの物語の中でそういう死にかたをさせてもらえることが、今の監督として、ありえないだろうと思ったのです。そこを考えだすと、また難しいですね。言葉足らずですみません。

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