それでもシャアは死なないから・・・ 

[2006/03/13] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

新訳Ζガンダム劇場版について、いろいろな方の考察にヒントをいただきながら、私なりにも三部作全体を振り返り、思うことをまとめたいと考えてきました。その手がかりとして、『Vガンダム』を手がけていた1993年当時、つまり最も鬱的な状態にあった頃の富野監督の言葉を読んでみたいと思いました。

ZガンダムLDBOX ライナーノートから 庵野X富野対談
【富野&庵野語録】倉庫より
 
この回想を読んで私が「これは・・・」と思ったのは、カミーユの名前の由来についてふれたくだり。モデルが「彫刻家のロダンの弟子のカミーユ・クローデル」と明言してるのはいいとして、「半生を精神病院で過ごした女性で。カミーユも最終回で精神をやられちゃいましたが、それもクローデルに影響を受けて?」という庵野さんの問いかけに、「もちろんです。」と断言してるのには、改めて読んでみて今さらですが、驚きました。テレビ版のラストにカミーユが精神崩壊することは、企画段階で名付けられたときから、もはや織り込み済みだったということですよね。

カミーユ・クローデルにとっての師ロダンの位置づけがカミーユ・ビダンにとってのΖガンダムだってっていう。その構造が僕にとって一番シンプルにとらえられる。クローデルとロダンの関係というのは、愛人関係でありながら、実はロダンの半分くらいの作品を彼女が作ってたんじゃないかという。でも世間的には、クローデルの作品もロダンが作ったんだとみなされて、失意の中で彼女は精神をやられる。反対にロダンという人はそのおかげで美術史に残っていったわけ。でもひとりの人間として考えると、ロダンが自分ひとりで成立していったかといえば決してそうではない。クローデルみたいな人もいたんじゃないか。と同じように、ガンダムだけでガンダムが出来るわけではない。要するに「表現される人と者の関係」を、クローデルとロダンの関係は象徴的に表しているサンプルだったんです。だからカミーユに惚れこんじゃった。


「僕にとって一番シンプル」を読み解くのは、そうシンプルではない?『ガンダム』が人気作品になり独り歩きを始める中で、ガンダムを育てた富野監督という存在は埋没していく状況の中で、

「ロダン=Ζガンダム=『ガンダム』そのもの」

「カミーユ・クローデル=カミーユ・ビダン=富野監督」


という図式が出発点ですね。新訳では消滅したクワトロのセリフ「個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破する上で、一番重要なことではないかと感じたのだ 」を借りれば、これこそが監督が吐き出したかった感情だったわけでしょう。

劇作者として自閉症になってゆくプロセスが分かっていなかったのが、分かりにくさのもうひとつの原因ですね。やはり僕はTV屋だから、芸人根性に徹した作り方のほうが性に会ってるし、上手いらしい。


繰り返しますが、これは十数年前の回想です。そして「自閉症になってゆくプロセス」が今はよく分かったから、新訳では混乱の中にかろうじて一筋の脈絡を見出そうとする? しかし企画の出発点の時点から、“終着点では狂う”ことが前提だったカミーユの物語を、“狂わない物語”に新訳で反転させるのは、スキルだけでなせる技ではない・・・。自身の体験に基づくとはいえ、それをどこまで劇作の中で表現することが出来るのか、出来たのか。

今はもうフォウについては感覚的にしか覚えてないんだけど、とても好きなのよ。ひとつ今にして分かったことがあるの。フォウ・ムラサメをやっちゃったから、カミーユは上手くいかなかったんだね(笑)彼女に吸われたんだ、というのを今思い出した。


この回想でもうひとつ「うわぁ!」って思ったのがここ。テレビ版Ζガンダムのファンが轟々と不満を言っている劇場版でのフォウの扱い。その理由はここにあるのだろうな、ということ。
「カミーユ・クローデルをモデルにしたキャラクター作りを、フォウとカミーユの部分に全部集約したの。」
5冊で完結したΖガンダムのノベライズが「フォウ・ムラサメの部分は圧巻でした」だけで「後は何もなかったんだなあ」「何のために5冊も描いたんだ、2冊でよかった」になってしまう、いわば不始末。
「混乱の部分も、フォウの上手くいってる部分も、全部計算じゃないんですよ。でもフォウの後はカミーユ、バラバラになっちゃったけどね。
富野さん自身がどう扱っていいのか分からなかったキャラクターだったフォウ。
「アニメーションはそのくらいあった方がいいですよ。」じゃないんだってば、庵野さん。カミーユがバラバラになっちゃうってことは富野さんがバラバラになっちゃうってことだったんだから!
フォウを救えなかったからって、「シャアとアムロの役目まで全部」背負っちゃわなくたっていいじゃないか。

富:あれまぁ、かわいそうね、やっぱり。
富:それにハマーンとシロッコまで来ましたからね、4人分背負っちゃった。20話以降、カミーユは急に忙しくなりますからね。
富:ハハハッ。そんなのは予定してなかったものね。そりゃ気の毒だった。そりゃ最終回で、少しは休みたくなった気持ちも、分かるような気がするよね。


すべてを背負い込む必要なんてないんですよ。フォウが救えなかったのだって、しかたがないんだ。(私は、こんな残酷なシチュエーションを何度も繰り返して見せてもらわなくてもいい、一度見せられたらもう分かったから。)

カミーユは何のために闘っているのかが『Ζガンダム』の物語の中で見えないような気がしていました。これが鮮明に見えてこないところが、この物語にカタルシスの足りない部分なのではないかと。
何故、カミーユがエゥーゴに参加して、ガンダムに乗らねばならなくなったかについては、ルロイさんが考察してくれていますが、つまり“生きるために他にどうしようもなかった”からに過ぎません。仲間たちへの信頼を育むことができたかどうかという新旧の比較もご指摘のとおりだと思います。
ただ、言われるように「仲間たちを守るために闘う」というだけでは、次々とその仲間が生命を散らしていった終盤の混戦の中で、彼は自分を保つことが難しかったのではないでしょうか。
エマ・シーンはその最期に、カミーユに対し「闘いを終わらせる」という使命を告げて逝きました。実はテレビ版でもあったはずのこのシーンが、『星の鼓動は愛』では、より重要な意味を持っていたような気がすることに、二度目にみたことでようやく気付きました。カミーユはエマの最期の言葉の意味を、より正しく受け止め、「闘いを終わらせる」という強い意志を持って最後の対決に臨んでいったと私は思うのです。
テレビ版では「新しい時代を拓くのは老人ではない!」はクワトロのセリフでしたが、今度はカミーユが「あなただって、まだやらねばならないことがあるでしょう!」と逆にクワトロを励ましてはいませんでしたか?導き受け入れるものと、導かれるべきものの立場が、ここではっきりと逆転していると思います。言われなくても新しい時代を拓く意思が、ここでは既にはっきりとカミーユに芽生えていたのではないでしょうか。

『ガンダム』の続編を作らざるを得ず、仲間たちとの信頼を育むことにも(20年前には)失敗した富野監督自身の姿が、カミーユに投影されていることは分かった気がします。

シャアは富野監督の理性であり建前であり理想であり負の感情である。
アムロは富野監督の人間性であり現実であり正の感情である
「逆襲のシャア」は、富野監督自身の正負の感情の争いの物語でもある。


ルロイさんのこの観察は慧眼だと思っています。だからこそ、ここでカミーユもまた、富野監督の分身の一人だと認めてやって欲しいのです。それは女性的な弱さですが、繊細な優しさでもあります。
そうした目で見たとき、クワトロは大して変わっちゃいない。むしろ終盤に近づくにつれて化けの皮がはがされて、まだ世界をその手に握りたいという秘められた願望が晒されていくところにまで、素直へ行っちゃってる。「要するに、新訳のカミーユはクワトロのおかげで崩壊を免れたようなものなのである」というルロイさんの結論には、だから賛同できないんです。
あえて言えば、きっかけはエマであり、決め手はやはりファの存在だった。そういうナチュラルな解釈でいいのではないかなぁ。

ただね、テレビ版より念入りに叩き潰されて、グワンバンの舷窓にシルエットすらなかったけど、やっぱりクワトロ=シャアは死んではいないことはエンディングの『Dybbuk』が象徴している。
つまりカミーユの闘いはようやく終わったけど、『ガンダム』そのものを終わらせることはできなかった富野監督自身の問題があるから、「闘いを終わらせる」というカミーユの使命が見えにくかった。だから繰り返し見るたびに良さはだんだん分かってくるけど、圧倒的な支持を受けるところにまではいけない。そういうことなんじゃないかと私は思いました。

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コメント

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 遅ればせながら「Dybbuk」の件ではご紹介ありがとうございました。

> 今度はカミーユが「あなただって、まだやらねばならないことがあるでしょう!」と逆にクワトロを励ましてはいませんでしたか?

 TV版のカミーユは#13から#50までクワトロの尻を叩きっぱなしだったので、その視点では劇場版はいささか物足りません。引用部に該当する場面のTV版のカミーユは「あなたは、まだやる事があるでしょう! <略> 僕も、あなたを信じますから」とまで捨て身で言ったのに、クワトロはカミーユを捨てて逃げちゃうんですよねぇ……。

 カミーユの戦いの目的は、TV版では自己解放だと思っています。その論旨でΖヒストリカ02巻に書いていますので、よろしければまた読んでみてやってください。
 劇場版に関しては、シロッコが最後の敵になる理由は明解ですが、3部作を通じてのカミーユの戦いの目的は愛しい人を死なせたくないという単純なものです。勿論TV版でもこの要素は重要なのですが、TV版と違ってそれがカミーユを追い詰めることにならないのは、劇場版では早々にカミーユの自己が開放されている=他者に受け入れられているからでしょう。そもそもカミーユとは富野由悠季の持つ女性性を投影した分身と見れば、スタジオの雰囲気がTV版と劇場版とで異なることもどこか反映されているのかも。

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