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新たな時代の“ニュータイプ”の証 

[2006/03/12] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

先日書いた、批評の基礎能力ということから言えば、この人の才能には正直、嫉妬さえ覚えるときがあります。(不遜な言い方をすれば、宮崎さんを言うときの富野さんみたいな感じ?私の書いてるのはしょせん感想文なんで、批評と比較することに意味はないんですけどね(笑))

yasuakiの新批評空間
映画「ZガンダムⅢ 星の鼓動は愛」の感想および、
映画Zガンダム論アップ


ブログの記事→『星の鼓動は愛』感想『映画Ζガンダム論』と三段論法で考察が深まっていく。整理の仕方がさすがです。

「組織と個人の軋轢を見上げる少年を通して、人の意識の膠着性を見る」という『Ζガンダム』の大きなテーマ設定に、新訳で変化があったとすれば、少年は見上げる視点から「見渡す」視座を手に入れたということではないかと私は考えています。
「個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破する上で、一番重要なこと」という20年前の考え方は、不本意ながら『ガンダム』の続編を作らざるを得なかった当時の監督自身の姿に重なるという指摘。なるほどなぁー。

ヘンケンの死を目撃して自失するエマを正気に戻すために、宇宙空間でノーマルスーツのバイザーを開けてみせるカミーユ。明らかに最後に狂う伏線として置かれたこの描写を残せたことは、大きなポイントだったと富野さんも言っていましたね。一番つらい目にあってきたカミーユだから、一番人の痛みもよく分かってしまうんだなと私は思って見ていましたが、確かにそういう優しい人ほど心を病んでしまいがちです。

「全部目の前に現われてくる事象を、テレビ版のカミーユみたいにプレッシャーとして、フラストレーションが高まるというふうに感じるんじゃなくて、全部それが外界を学習するための人々、そのための事件だと受けとめるようにしました。カミーユの受けとめる目線だけを変えたんです。」(Zガンダム・ヒストリカ1より)

そして、この自身の体験を踏まえたスタンスの変更は、同時に、自閉や鬱病に苦しんでいる人々や、今後、歳をとり、同様の苦しみを受けるであろう人々に対しての、提案でもある。


頭だけで考えていたら、こういうメッセージは上滑りしそうなものですが、まさに富野さん自身が心を病むに至った体験を踏まえて、「体感」すべきものとして作品中で提示されているので、無視できない力があるんじゃないかと思うんです。確かに優しい人ほど心を病みやすいけれど、優しい人みながみな、心を病むわけじゃない!

その決着が「心を開いて他人の力を自分のものにできるカミーユと、心を閉ざしているシロッコの対決」とyasuakiさんがまとめた地点に凝縮されているんですね。テレビ版が明快に「一人ひとりの生命の重みを感じられるカミーユと感じられないシロッコの対決」だったかどうかは、私にはよくわかりません。生命の重みということは今回も変わらず言っていましたが、以前にはその重み自体に自分も押しつぶされてしまったかもしれません。

「学ぶということは、他者をとりこむことで、自己に他者を投影することである。となると、自己はひとりではないし、また、他者が自己のものを学んでくれて、吸収してくれるなら、そこにも自己がいることになる。」
富野監督がターンエーの頃から考えていた新しい「ニュータイプ」の定義が初めて表現されたという指摘には、ちょっと感動しちゃいました。

TV版では崩壊したカミーユの精神が、映画版では、最後の最後で崩壊しなかったのは、映画版カミーユが外部に目を向けるキャラクターであることに加えて、ファがやってきてくれたためであった。
これは、富野監督自身の病気の以下の経験に対応する。
「だれかが見てくれている、誰かが聞いてくれているという想像は、自閉症になることを予防してくれる。
自己が安定するのだ。」(ターンエーの癒しより)



個性的な女性キャラクターが多数出てくるこの作品で、ファ・ユイリィという女の子は、正直そこまで魅力を感じることが少なかったんですよね。
『星の鼓動は愛』のポスター等で多用されたメインビジュアルについて「この人は誰なんでしょう?」って書いてたぐらいで、私もカミーユを救うのは誰なんだろうかと気になってはいたんですが、「何と」というか「やはり」というか、“お隣さん”のファだった。

そこで気づいたものは、「日常」のかけがえのなさであった。



ああ。ファ・ユイリィっていうのは一見、別にそのほど魅力的にも思えない“日常”そのものの象徴なんだなぁ。(ファンの方には、ごめんなさい。)

そして、その日常というのは、フォウに出逢うことがなければ、決して手にすることのなかったようなものなのです。



『恋人たち』で、フォウの死の直後にファとじゃれてたカミーユに反発してた人は多かったけど、彼はあそこで“日常”のありがたみを再確認していたのかなぁ。

彼女が見ていてくれたからこそ、精神の崩壊を起こさずに済んだというのは、まさに富野監督と、奥さんの亜々子さんとの関係そのものであろう。(詳しくはターンエーの癒し参照)


そこで、じゃあフォウは昔、富野さんが好きだった“チョキ”みたいな存在だったのかな(詳しくは『だから僕は…』参照)とか言ったら・・・これは言いすぎですね、ちょっと想像の遊びが過ぎました。ごめんなさい。

戦争によるプレッシャーやシロッコの怨念まで含め、TV版と全く同じ経緯であっても、おそらく、意識の持ち方をわずかに変えるだけで、人は精神を崩壊させることもあれば、そこから復帰することも可能になるという、富野監督自身の実体験に根ざした変化こそが、驚くべきところではないだろうか?
その一点、おそらく、映画全編のうち、最後のわずか数分を表現するためだけに、それまでの全ストーリーは捨石として使われ、あえてテレビ版とほぼ同じ話を使った。(これは、ザンボット3でも富野監督が使った手法であると思う。)
つまり、映画版がテレビ版とほぼ同じ物語であるのは、総集編だからではなく、わずかな意識の違いが、精神の崩壊からハッピーエンドへの転回をもたらすということを表現したかったのだ。


まさに言われるとおりだと思います。
ただ、この解釈は富野監督の個人史は知らぬまでも、テレビ版のラストを知っていることが前提で、一見“当たり前の結末”で終わることが“衝撃のラスト”であることを普遍的に言うことは、なかなか難しいのですよね。
だからこそ、カミーユは狂うか狂わないかのギリギリの一線上に置かれなければならなかった。(宇宙空間でヘルメットのバイザーを開くことが、どれほどに危険なことかを、観客の多くが想像できるとは限らない所が切ないですね。)
でも、いつか何かの弾みにふっと思い出すのかもしれないですね、そしてそのときにあのラストシーンは・・・って振り返ったときに「はっ」とするようなものがある。そういう“衝撃のラスト”であったような。

「かつて自閉と精神崩壊の物語でしかなかったZガンダムが、・・・」以下のまとめは、yasuakiさんの言葉をそのまま読んでください。この見事なまとめに付け加えることは何もありません。
ただ、

「アニメだけ観ていたらお前らバカになるぞ」と視聴者に渇を入れる意図

は、まだこの物語の中に潜んでいたような気が私にはします。ガンダム好きの皆さんは、これを無意識下に受け止めて、あまたの悪評を書き連ねているような気が私にはしますね。
私自身、一回目に見たときは感動半分衝撃半分。やっと落ち着いてきたので今日、二度目に見てみたら、今度は素直にそのメッセージも受け止めることが出来たような気もしましたが。

「学ぶということは、他者をとりこむことで、自己に他者を投影することである。となると、自己はひとりではないし、また、他者が自己のものを学んでくれて、吸収してくれるなら、そこにも自己がいることになる。」


yasuakiさんが新たなるニュータイプ像の実践でもあったとしたこの作品は、容易に覚醒をできないオールドタイプからは、反発を受けることもやむないですね。むしろ反感が高まることが、真の“ニュータイプ”の証であるのかもしれません。いい作品でした!

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