「新訳Ζガンダム」富野演出は味わい深い!
[2006/03/11] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲
表現されたものに感動することに、マニュアルは要らない。むしろ邪魔だ、とさえ私は考えていますが、感動を人にわかりやすく伝えるには、考察の論理を組み立てる能力、文章に示す能力などのスキルはもちろん、論旨を補強する資料を(マニュアルとしてではなく)読みこなせる読解力も必要だと、我が身の力のなさを思い知らされる日々です。
ネットでいろいろな感想を読み比べていますが、人それぞれの感じ方がある中で、すべてに同意できなくとも、個々の部分的な視点で「なるほど!」と思うものにいくつか出会いました。
無限画廊のブログです「映画見てきた」
正直、クワトロを「トロ」っていうのは抵抗ありますが(笑)、「話が進むに連れて団欒の輪から疎外され出すトロ。レコアが消えると話し相手も居ない悲しみ。」「一人イキイキと活気づいて戦争の準備をするトロ・・・誰が死んでもお構いなし」は卓見だと思いました。同じく「ヒヨッコアクシズ兵がハマーンにおんぶに抱っこという情けない状況で一人気張るハマーンと、ハマーンをなにかと気遣うミネバ」「アムロさんちょい出演。レツとキッカがパソコンで宇宙を眺めているのに対して、生で夜空を見上げている」など、個々の人物への観察眼がすばらしい。
花催い「星の鼓動は、愛。」
ジ・Oに対して特攻を掛けるカミーユがシロッコに対して放つ言葉は、テレビ版の「ここからいなくなれ」ではなく、「女たちのところに戻るんだ」である。前者は単なる排斥であるが、後者は誘導も兼ねている。これは大きくニュアンスが異なる。シロッコの戻るべきところは、彼が権力を手に入れたら捨てようとしていた女性たち、サラやレコアといった女性達の魂の在り処であり、孤独をかこつ場所ではない。シロッコにとって「貴様(=カミーユ)の心も一緒に連れて行く」必要は、ない。
排斥ではなく誘導!この解釈には感動しました。
ふるたこ徒然「『ZGIII』、もう大きな光は見えなくなった」
レツ「もう大きな光は見えなくなったな」
キッカ「そうだよね、なくなったよね」
この「大きな光」が何であるかは、お分かりだと思う。
TV版ラスト、精神に異常を来したカミーユが言う「大きな光がついたり消えたり…」のセリフに象徴される、「精神崩壊」、「バッドエンド」、「ニュータイプの絶望」…、そんな悪しき結果のことである。
つまり、「大きな光」が見えなくなったとレツがわざわざ言ってみせるということは、1度目(TV版)の呪いから解放されたということだ。さらにそれを確認するように「そうだよね、なくなったよね」とキッカが言う。カミーユが救われたことが決まった瞬間だ。
ああ、そうなんだ!!涙が出そうになった。
「納得したいがために何度も見てると、富野が選んだ演出の意図が段々と分かってきて面白い。」まさに言い得て妙ですね。激しく同感。
富野作品の大きな魅力のひとつは、まさに「簡単には納得がいかない」その部分に秘められているのかもしれないですね。
懐は深いのだが、間口は狭いのか?そこをもう少し考えてみる必要を感じています。


長くなるので稿を改めますが、もうひとつ、これは腰をすえて読みたい考察があります。次回、乞うご期待。(笑)
コメント
皆さんよく見てますね
ある意味正しい見方かも知れませんが
誰も全部完璧に覚えてなんかいないんですが、それぞれ感性が違い、目の付け所が違って話し合うことがたくさんあるのはうれしいことのような気がします。
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