男の死に様とヘンケン艦長の死
さすがの囚人さんも、新訳Ζ『星の鼓動は愛』の話はそろそろ一回ぐらい休みたいんです、本当は。(・・・頭冷やせよ〜)。
しかし昨日、zsphereさんが避難所にお出でになって、女と男の一般論を語っていってくれたので、また新たに考えるタネができてしまいました。(苦しいんだけど、嬉しいんだけど、やっぱり苦しい。嗚呼、富野アニメ。)
「男は愛するもののために、死んでみせるくらいしかできなかったり」何気なく言い置いてくれましたが、これ、Ζガンダムの物語の中で顕著に分かるのはラーディッシュ撃沈の場面ぐらいでしょうか?(・・・しかも新訳では、テレビ版と微妙にニュアンスが違う!)
中学生ぐらいの頃かな、「世界の終わりが来ればいい」ということを、わりと真剣に考えていたのは。「その時、愛するもののために自分は死ぬんだ!」と思っていた気がします。(で、それは誰のためなんだ、と焦ってもいましたが・・・。)
世界は全然理想的なものじゃないし、自分がどれほど頑張っても、そんな腐った世界を変えるほどの才能もないということに、徐々に気が付きはじめていた頃。自分の生き方というのを考えなければならない時期に、どう生きればいいのかまったく分からないので、せめて死に方ぐらいは・・・と思っていたんじゃなかっただろうかと。(そんな頃にイデオンの『発動篇』とかに出会ったことも、自分には大きな影響を残しているんだろうな。)
ヘンケンさんはテレビ版では、思いの届かない片思いのまま、その女を守るために自ら突っ込んで行ったんでしたよね。少年の頃の自分には、その気持ちはとてもよく分かりました。軍事マニアの方々が、「部下を道連れにしたバカ艦長」と言うのも理屈では分かるんだけど、でも男の死に様として、ああいう死に様。憧れたくなるものであったように思うんです。
ネット上の感想を読んでいると、ヘンケンとエマ、ラブラブになれて良かったね、という感想は散見します。でも新訳ヘンケンは、自ら突っ込んだというよりは、部下の無謀な突出を止められない・・・みたいな、一瞬鬼気迫る複雑な表情だったような気がします。(瞬間のことなので、違ってたらごめんなさいね。)意外とその辺の差を感じたと言ってる人は少ないんですよね。なんだか脳内補正がかかってるのか、テレビ版と同様に、ヘンケン自身の強い意思でエマをかばって艦を沈めたかのように見ている人が多い気がします。(みんな自分が見たいように見ているのなら、それでもいいのかもしれないんですが。)
もし私の印象が正確だったとして、少年じみた“純愛”に殉じて、前後を考えずにその命を投げ出すのと、“実体のある愛”に個人的な想いでは捉われながら、組織(社会)の中で部下の命を預かる艦長という責務との間で瞬間に引き裂かれる人物像と、この差は大きいはずなんですが。(あるいは残念ながら前者のほうが、人々には圧倒的に心地よいのかな?)
『Ζガンダム』は、たくさんの人が無残に死んでいく作品ですが、死んじゃったら何にもならないんだって、カミーユは強く強くサラに言っていました。もちろんこれは、新訳ラストに繋がっていくとても重大なメッセージです。「あんなところでモビルスーツから降りなくったって・・・」と戦争のリアリズムを追求する人たちが言うのも分かる。分かるんだけど、富野さんはあれを生身と生身の人と人との触れ合いの中で伝えさせたかったんだろうな、と思われてならないのです。(技術論の問題と表現ということの本質性)
・・・これを言うと相当世間の反感を買いそうなので、言わずに心の中にしまっておこうかと思ったのですが、ここまで書いちゃったのでこの際言ってしまいます。ヘンケンの死後、しつこくまとわり付くジェリドのバウンドドッグをカミーユが撃破し、沈み行くラーディッシュに向かっていって爆発します。それをにらんで「戦場でじゃれているから!」みたいなセリフをカミーユが言うんですが、あれはジェリドをダミーにしながら、その向こう側にあるヘンケンの死に様に対しても、“どうしてこうなってしまうんだ!”というやるせない思いをぶつけた暗喩だったように私には聞こえました。
(なんてことを言いやがる、という批判は覚悟しています。)


・・・zsphereさんの言葉から、私が『Ζガンダム』という物語全体に、何か物足りなさを感じているところを今日は書こうと思ったのですが、違う方向に力が行ってしまいましたので、それはまた後日、改めて。











