私も「愚衆」の一人に過ぎませんが、 

[2006/03/04] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

いよいよ明日は、新訳Ζガンダム最終章を迎えるという夜に、相変わらず「いつの記事について書いてるんだ」な私ですが、まあお許しください。

ガンダムの父 富野由悠季―愛を語る。:シャア専用ブログ

たとえばシャアの場合は、結局ファーストガンダムの時がいちばんの華だったから、後に行くにつれ(かつて)華であったことの収支計算を意識しちゃう。そうすると、シャアはやっぱりあんなもんなんだろうなと考えました。


私はオジサン世代なので、どうしてもアムロやシャアのことが、まずは気になってならないのです。
で、「シャアのように滅びの美学を感じさせる者」の生き様をどうやって決めたのかという問いへの答えがこれ。『逆シャア』の時点でも、(たぶんその功績が)千年残る政治的指導者の器量ではないとまでおっしゃいます。だから「やはり"個人"の話に落としていくしかない」のだと。・・・シャアについて、"戦争論"の面でも富野さんは完全に見限っていたのだなぁということを再確認した次第です。

ひとつの人格としてシャアを捉えていった時、「どういうふうになるかな?」って考えていくとああなるしかなかった。
原作者だからどう作ってもいいという考え方に対して、僕は肯定的にはなれないんです。


"ご都合主義"の対極に立とうとする作者に対して、受け手の側は、(たぶん私も含めて)ずいぶん勝手に自分の好きな物語として読んでしまってきていたようですね。『逆シャア』について皆さんと対話をする中で、そういうことが自覚できるようになりました。ありがとうございます。
だから私も、ここで富野さんが言っている「ロボット物のようなジャンルの作品しか見てない子」の一人だったのに違いありません。そんな子の目を「もう少し外に向けさせる」意欲があったとして、そこにTV版の時点では、必ずしもうまく機能しなかった点があったのか、どうかということですね。

カツ・レツ・キッカのような子供たちは、有象無象の人々、愚衆かもしれない平民の代弁者です。子供が持っている「純粋な願望」の象徴なんです。
本来、その純粋な部分だけをすくいとっていけば、世の中がそんなに悪くなることはないはずなんです。だけど、人間の本当に悲しいところは、年をとっていくほどそういう願いを忘れてしまうということです。そういう構造を示すために、僕は彼らを愚衆の典型として描いています。


カツを見てると、どうしようもなくイライラとするのは、私と同じ愚かさを持ったヤツだからなのかな、とやっと分かりました。大人になりがけの頃に見ていたから、その印象はなおさらだったのかもしれないです。
ジェリドはお勉強が出来るだけで自分をエリートと信じ続けた官僚タイプ。シロッコは洞察力も兼ね備えた天才だけど、「平民の立場に自分の足場が降りていない。」(平民=愚衆なのでしょうかね?)・・・こういう自分とは縁遠いやつらのことは、案外素直に受け止められているのに、一番"何なんだこいつは?"と思ってたキャラクター(=カツ)は、ある意味で自分に似た愚かさを象徴していたから、嫌いで客観視をできなかったのかもしれないです。
「ロボット物のようなジャンルの作品しか見てない子」は愚衆の典型に近かったとして、思えばロボットもののようなジャンルの作品ばかり作らされる監督もまた、自分が愚衆の一人だと思えてならず、さぞ惨めでつらかったのでしょうね。

・・・しかし要するに、どいつもこいつも駄目。カツが馬鹿なのは当たり前だけど、かつての英雄であるシャアも(少なくともΖではアムロも、)個人レベルのところで鬱屈してしまって、状況への打開策を示しきれないまま、押し流されていく。

これを、どう新訳してみせるのかの決着が、いよいよ明日からの第三部『星の鼓動は愛』で問われているわけですね。
Ζガンダムが"ハイパー化"することを、"ご都合主義"だと非難するガンダムマニアは多いわけですが、作者はそんなことよりも、もっと物語の重いところで都合よくヒーローになれない人間たちの群像を描こうとしている。・・・この狙い自体を変える気は、富野さんには無いようですが、ではスーパーヒーロー不在の曖昧さを抱えたままで、簡単に簡単に割り切って捉えようとする愚衆の目を「外」に(この場合の「外」は、ご都合主義のマンガ的世界の外、つまり都合よくなど割り切れやしない現実の世界ですかね?)向けさせようとするのか?

『星を継ぐ者』『恋人たち』と観てきて、シャアもアムロもやり得たことはTV版の時と大差ないのに、以前ほど鬱屈しては見えない気がします。彼らに比べれば、さらに状況に流されているだけで、その意味ではむしろカツ同様なカミーユでさえ、うじうじしないで状況へと立ち向かう姿勢が、むしろ心地よいと感じられます。

今、富野監督が「基本的に暗くて嫌な話」だった『Ζガンダム』を、やり直せる自信を取り戻したのは、『ブレンパワード』以降の作品を制作する中でだったと思います。
新訳Ζ最終章までに『ブレンパワード』を見終りたかったのですが、残念ながらまだ途中です。(この物語は時間をかけてじっくりと味わいたいので、まとめ借りをしてきて一気にみるというのはあまり馴染まない気がしています。)
最近ネットで「第三幕第一場」さんの「ブレンパワード雑感」という論を読んで、いつもの「なるほど!」が入りました。(笑)
何が正義で何が悪かどころか、これからいったい何が起ころうとしているのかさえ全く分からない、『Ζガンダム』なんかより、はるかに混沌として曖昧な物語。

正体の分からないものを根本的に解決する方法はない。曖昧なものを曖昧なまま扱い、手に入る情報から最善を尽くす。ある意味で現実の世界も同じようなものではないか。


ああ、この達観なのかなぁと!
ある意味で(もしかしたらあらゆる意味で?)、かつて存在した正邪善悪の価値観は揺らいでしまい、どこをどう眺めたら未来に希望が持てるのか、私なんかにはまるで分からない時代のような気がします。だからこそ逆に、単純明快に"勝ち組負け組"と白黒を付けたがる風潮も生まれるのでしょう。
ネットのどこかで、誰かが「ブレンに出てくるキャラクターは馬鹿ばっかりだ」とか書いていたのも読みましたが、そう言い切れるほど、私は自分が賢いとは思えない。
だからこそ、「原因も解決策も分からない中で個々が最良だと考える行動を取る」人物たちを観ていることが、こんなにも心地よいのかな、と。
『逆襲のシャア』のラストで富野さんが言いたかったことは、皆さんのおかげで少し分かった気はしましたが、あの映像の見せ方だけで「愚衆」にも通じさせることは難しかったと今でも思っています。
『ブレンパワード』のラストはまだ見ていないし、『キングゲイナー』もラストの部分には、少し不満が残ったような気がしています。『∀ガンダム』と同じぐらいの満足を、明日劇場で目にすることが出来るのか?
わくわくとして、今夜は寝つきが悪そうですよ(笑)。

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コメント

> しびれました

早速見てきましたが、まあ、ケチはいくらでもつけられますが、楽しかったです。
クワトロ大尉はやはりクワトロ大尉でした(^O^)
が、ラストはびっくりしました。誰もがカミーユのラストに気がいってたと思うのですが、見事にすかされました。
富野監督は只者じゃない、この意識が無意識の内に反感に・・・なりませんでした(^O^)

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