目に見えぬ鬼神はゑがきやすく、・・・
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平成17年度文化庁メディア芸術祭
アニメーション部門審査講評
長編部門では、商業主義という通念からも逸脱しているのではないかと疑わせる作品もあり、ここにもドラマと感性の喪失を感じる。葛飾北斎の北斎漫画第三編の冒頭に「目に見えぬ鬼神はゑがきやすく、まぢかき人物はゑがく事かたし」という言葉がある。アニメ関係者は、この言葉の意味を痛切に理解して、21世紀の新しい映像のストラクチャーを開拓していただきたいと願っている。
どんな作品がエントリーされてたのかよく分からないし、「商業主義」からの逸脱と「ドラマと感性の喪失」がどう結びつくのだろうかとそこはまだ読解できないでいます。
北斎の言葉は、先日、zsphereさんが言っていたこと「ひとまわり大きな枠に話を拡大して論理を振り回すことで、一個人の感情や理屈が、戦争を生み出すような大きな論理に(わりと簡単に)変わってしまうのです。」とほぼ同じ方向性ですね。そういう意味だったのかと改めて理解されました。本当にありがとう!
もうひとつ、少し昔の「少しえらい」やつを、ついでに出しておきます。
ヒューストン・リオ・サンパウロ
(国際交流基金の招聘で)
日本でアニメがディズニーと異なる発達を遂げた背景には、日本独自の文化があったのではないかという自説を説き、同時に、ドラマツルギーへの理解と映像力学である視覚印象を応用しなければならないという要点を語った。
聞きたい!日本でそういう講演をしてほしい。(笑)
上記はヒューストンでの話だけど、リオデジャネイロでは「アニメ的画像にシンパシーをもった日本文化の特性があって、ことに日本語の文字の表示がアニメ的な媒体に対して独自の表現センスを発揮させたのではないか、という自説」を語ったと言うことで、両者が同じ内容を示すものなのかどうかも興味深いところ。(アニメ的画像へのシンパシー→独自の文化?文字の話はちょっと想像もつかない。)
サンパウロでは「『なぜ日本でロボットアニメが生まれたか?』のテーマであったのだが、用意した内容とは別に"アメリカで発達したアニメと日本のアニメの違い"の説明を補足した。」ということで、これも是非聞いてみたい内容。
日本の手工業的な仕事という発想に捕らわれつづけていた者としては、より一般的な創作行動者として努力をしなければならない、という一点と、エンターテイメントを提供しつつも、有効な情報提供をする社会人としての任務というものを改めて知らされ、さらには、実行への可能性を文化の違いの上からいかにしていくかという視点が得られたことは、有意義だった。
後半に行くにしたがって、私の理解度では追いつけなくなってきますが、とにかくとてもいいことを言っておられる(らしい)と思いました。
海外での講演内容は、日本では何かのメディアに載らなかったのでしょうか?情報お持ちの方、是非教えてください。
<(_ _)><(_ _)>



コメント
デスティニーの事でしょう
ネットヲタ限定で、非常に悪い意味で話題を集めているアレを本当は名指ししたいはず。
「目に見えぬ鬼神は描きやすく、間近き人物は描く事がむずかしい」という言葉がある。アニメ関係者は、この言葉の意味を痛切に理解して−−」視聴者の身近にあるネタ(例:携帯電話)を安易に小道具として用いることで劇への興味を引くようなことはせず、目に見えない架空を造りだす楽しさを思い出せ、ということでしょうね。
参考まで
http://media-arts.cocolog-nifty.com/festival2005/2005/11/post_1c0e.html
審査はこんな感じと書いてあります。
http://media-arts.cocolog-nifty.com/festival2005/2005/12/post_03da.html
受賞作以外で長編の講評に名が挙がっているのは『交響詩篇エウレカセブン』『タイドライン・ブルー』『劇場版 鋼の錬金術師シャンバラを征く者』『舞-HiME』『ハチミツとクローバー』『フタコイ オルタナティブ』『BLOOD+』など。「内容に審査委員の一部から批判があった」というハガレンなんかが怪しい?と私は思ってました。(笑)
デッドコピー
追加
近きもの遠きもの
難しいものに挑む気概が欲しいという意味なのではないかと思ってますが。
道が出来れば近くなる
エヴァのデッドコピー然り、「『ファンタジー』粗製濫造」然り、
最初に描かれたものをなぞる形でイメージを強化する、というのは大変楽の出来るやり方だろう、と想像できます。
ある意味で、遠い筈の鬼神たちは、ひどく近しいものとなる。だが、そういった作業は、鬼神を消費単位に貶める危険を常に孕む。
ル=グウィンという作家が
「妖精の国に6車線のハイウェイを造って乗り込む」如き風潮に苦言を呈していたのを思い出します。
この発言は、アメリカにおける70年代以降の「『商業的』SF、ファンタジー作品」の量産に対しての言及だったのですが、現在我々がおかれている状況にもこの言葉は当てはまるように思います。
想像力は無限だ、と言われつつも、我々が認識しうる「異化」というのはそれほどバリエーションを持ち難い。全ての物語は焼き直しだ、というのもまた事実です。
だからといって、「新しい」物語に触れたときのセンスオブワンダーが否定されるなどという事は決してない。
物語は、受け手にとっては、常に「新しい」ものなのだから。
いかに新鮮な視点で物語に触れる事が出来るか、というのは根源的な重大事です。
我々受け手にもその姿勢は不可欠であるべきですが、
送り手の皆さんにも是非その事を忘れずにいてほしい、というのは贅沢ではない筈だと、僕も思います。
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