『ガンダム』のリアリティ 

[2006/02/22] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

しつこいようですが『逆襲のシャア』の中でクェスを救えなかったアムロというテーマについて、・・・

責任を持つってことは、自分の手に余る時にははっきりと「ここまでは手が回らない」と言う事まで含まれると思う。


と言われたzsphereさんのおっしゃりようは正しいと思います。それを逆手にとって、それなりに整理できないのであれば、作品の中で示すべきではなかったのではないかと、作者としての富野さんの姿勢の問題に混ぜっ返してしまいました。

人類全体の大きな問題である「戦争論」と、登場人物ひとりひとりの「等身大の幸福論」が等価であるとすればするほど、アクシズさえも押し戻せたとしても、一人のクェスを救えないアムロという結末はどうなのかと思ったのです。
それは偉い"アニメファン"の方々はともかくとしても、もっとごく普通の"一人の観客"たちの希求するものから遠かったのではなかったか、と。

実は私自身の中で、この反論で納得できている部分と、いまだ釈然としない部分が残っています。詭弁なのではないかと。
考え直してみれば、「等身大の幸福論」の重要さとともに、その無力さをも、ファーストガンダム以来、例えばイデオンなどでも、繰り返し富野さんという人は描いてきた人だったなと思い至ったからです。

人間というのは、「どうしてこの人が?」というような残虐なことも、ときにやってのけてしまう生きものだということは、歴史上の事実や昨今のショッキングな事件も示しているとおりです。
と同時に人間というのは、ごく普通だったはずの人が、ときに状況の中で、神を思わせるような自己犠牲で多くの人たちを救うといったことをやってのける可能性さえ秘めている。このことも、否定しがたい事実だと思うのです。
(だから、その意味では"奇跡"というものは実在するといっても良い、と私は考えます。)

ものすごく大きなことの前では、人は人を超える可能性を持つことが出来る。「絶望もしちゃいない!!」(アムロ)というのは、何の根拠もない妄言に思えるけれど、実は人間というものの、ひとつの本質は捉えた世界観であるかもしれない。

けれども人を超える可能性を、仮に現実のものとしてさえなお、人は身辺のつまらない些細なこと、コンプレックス、こだわり、つまり"人としての業"に足を取られてしまう弱さから、多分逃れることは出来ないのではないか?
"ニュータイプ"の交感を見せたアムロとララァの悲劇しかり、"無限力"を持て余すだけだったソロシップの悲劇しかり。
富野さんという人のこだわりが、もし絶えずそうしたところにあったのなら、『逆襲のシャア』という作品の中で、やはり最も重要なポイントは、クェスを救えなかったアムロの姿ということになるのかもしれないですね。

ファーストガンダムのテレビ版と劇場版を比較すれば、"ニュータイプ"ということをどうすればもっと受け入れてもらえるのかという富野さんの苦心のあとが見て取れる。
"ニュータイプ"が超能力的だろうがどうだろうが、そんなことはかなりどうでもいいこと。それより何より、たとえそうした超人的な進歩を遂げたと仮定してさえも、人という存在は身辺の瑣末なこだわりから脱却できない。その事実のほうが、より重要な、富野さんの言いたかったことだと考えると、いろんなことがすっきりと見えてくる気がします。
それが『ガンダム』のリアリティというものなので、SF考証的にどうのこうのとか戦争学的に云々などというのは、それを支えるダシに過ぎない。

ただ、そうしたテーマを仮定したときに、ごく普通の"一人の観客"たちに、それを通じさせることが出来たかと言えば、完全に失敗ではないにせよ大成功を収めたとは言い切れなかったのかもしれない。
『ガンダム』という作品ひとつ見ても、この作品を支持する多くのファンたちの間でさえ、「"ニュータイプ"という概念がなければもっと良かった」と公言する人が多いという、たまらなく残酷な現実がある。

マニアはこの際どうでもいいことにしても、ごく普通の"一人の観客"たちが、「ロボットもの」のアニメーションに希求するものとして、仮にここで"人間の業"と呼んでいるものは難しすぎるテーマなのだろうか? ・・・そうなのかもしれない。
ではそのような制作へのこだわりは無意味なものなのだろうか。私はそうだとは思いたくない。

最近の富野さんの言うことやることをそういう視点で見聞きしていると、目指していることとその難しさが、ある程度意識化されてきているような気がする。
なかなかうまく行かない。この人は天才ではないのかもしれないとも思う。けれど出来ることをひとつひとつやろうとしていると思えるから、今のこの人は信頼が出来ると思う。期待していいと思える。・・・信者のたわごとですかね?(笑)

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コメント

> とりあえず一つだけ

 なぜアムロがクェスを救えなかったのか……という問題ですが、実は私、この問いの立て方自体に違和感を持っています。

 だって、クェスを救える位置にいたのは、そして救うべきだったのは、アムロじゃなくてハサウェイ・ノアだと思うから。
 アムロには、チェーン、ブライト、ケーラ、そしてライバルとしてのシャアなど、自分の抱えている人間関係がありました。パイロットとしての責務もある。この上、クェスの居場所まで自分の中に確保することはできなかったでしょう。だからそのように接したのです。
 けれどクェスには、彼女の居場所を作ることのできるハサウェイという人がいた。だからアムロも、その点ではハサウェイを応援していたはずです。
 自分の家庭環境に嫌気がさして荒れていたクェスの心も、ハサウェイと交流する中で変わっていったかもしれない。それが、クェスの「救い」だったと思う。
 シャアがクェスを戦場に引き込まなければ、そうなれたかもしれないのです。

 シャアの罪深さは、クェスの「父親への反感」という家庭的な感情を、「地球にへばりつくアースノイドへの反感」という大きな論理にすり替えてしまったこと。
 この変換を、富野監督は強調して描いています。ロンデニオンでのシャアとアムロの殴り合いのシーン。実際これを契機に、クェスはシャアの方へ行ってしまう。
 こういう風に、ひとまわり大きな枠に話を拡大して論理を振り回すことで、一個人の感情や理屈が、戦争を生み出すような大きな論理に(わりと簡単に)変わってしまうのです。

 これが、逆襲のシャアを作っていた当時の、富野監督が抱いていた絶望だと思います。

 実際、ガンダムの指導者たちは、みんなこの拡大の図式を持っています。
 ハマーンは、恋人シャアの裏切りへの腹いせという私情、それにその後の自分の寂しさという感情を拡大して、ザビ家復興とそのための強圧外交をやってのけます。
 ティターンズを乗っ取った野心家シロッコも、実は「自分の考えに凡人はついてきてくれない」という不満を拡大して政治論をぶっていたことがZガンダムの終局あたりで暴露されます。
 シャアはいわずもがな、アムロへの私情。
 鉄仮面カロッゾもまた、家庭内不和を「エゴを強化」することで政治問題にすりかえていました。
 ギンガナムだって、自分に断りもなく地球に下りたディアナへの私情が、物語後半の強引な地球侵攻の動機であることが明かされています。

 数万人数億人を論じる「大きな論理」というのは、こんなに危険なのです。自分のコンプレックスを、政治思想にすり替えて逃げているだけ、なんて事はザラにあることなんですよ。
 特に戦後日本人はそのことを全然わかっていない、という苛立ちが、富野監督にはあったのかもしれない。

 だから、逆襲のシャアのラスト、アムロとシャアの会話はクェスについてだったのではないか。
 実際この話題を振られたおかげで、シャアも白状させられてしまったではありませんか――ララァは私の母になってくれたかも知れない女性だ!

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