「映画は大衆芸能である」 

[2006/02/17] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

富野総監督インタビュー完全版」(サーイ・イサラ)って、我ながらいったいいつの話題を書いてるんだって話なんですが、毎度こういう我儘なやつですんで、何卒ご勘弁願わしゅう。
第三部公開まで、いよいよあと二週間ですね。あまりに待ち遠しいので、ここまでのまとめインタビューとしてよくできてたな~と思う、これを読み返してみたのです。

自分では印象の悪い作品で、いわゆるガンダム以後ヒット作品を作れないなら「ガンダムしかないだろう」「もう一度ガンダムを作れ」って言われて作ったのが『Zガンダム』


そういうつらい記憶でしかない作品に、もう一度取り組もうとしたのは、「自分がイヤだと思っていた部分を、すべてきれいに見せるということができるのではないか」「この歳になれば、そういうスキルを手に入れているのではないか」という思いがあってのことだと言います。
イヤだと思っていた部分とは「敗北感が強すぎて、極めて内向的な作品」ということのようです。カウンターというのは、感情レベルで言えば見返してやりたいということでしょうね。
しかし「戦争ものを作るならこうなってしまうだろう!」という開き直りは、前回出てきたよう"等身大の幸福論がない戦争論は危険"あるいは"一個人の視点で、戦争を支える論理を照らし返す"という想いを捨てきれない監督であるならば、やはり自棄だったと言わねばならないでしょうね。
「基本的な成立が、ものすごく貧乏臭いところから始まっている」とは、そういう個人レベルの怨念めいたことを作品に持ち込んでしまったことを言ってると思います。それは御大としては「志の低い」ことだったのに、これこそを奇禍として、底なしの自分語りを文芸性と解釈する後続が生まれてきた。その状況は「非常に迷惑」である、と断言なされる。

おそらく今にして思えば反省される"自分語り"への答えが、"エンターテイメント"とか"娯楽"ということなのでしょう。それはもちろん迎合などではなく、大衆に向かい発するに足るだけの内容を備え、その高い志への評価によってメジャー化し、ヒットすることを目指すんだという決意表明でしょうね。「芸能としてきちんとした位置付け」とはたぶんそういうことだと思います。

「この手のアニメとしては…」というような枕詞の付いたヒット作というのは、しょせんそれは仲間内での慰めあいごと


ここから読めるのは、監督の念頭にある"大衆"とは、狭いアニメ村住民の範囲を超えた人々だということでしょう。いきなり作者の矛盾と自分を同列に並べて他の観客を見下しはじめる、あの"アニメファン"とか"アニメ界というムラ"の住民とかいう人たちの向こう側にいる、"一人の観客"たちこそが、ここでいう"大衆"なのでしょう。

「劇場公開にかける映画は、作り手が好きに作っていいものではない」「ひとりの“好き”で作れるほど、映画は甘くないんです。」「ひとりの“好き”で企画して映画を作れるような才能のある人間は、僕はこの世界にいないと思いますし、ひとりの人間、ひとりの原作者の想いだけで作った映画は観られたものではないんです。」
これらは皆、「クリエイターは公共をもっと意識すべきだ。」という叫びと同じ性質の言葉ですが、"大衆"への信頼とともに注目されるのは、映画という表現形式への信頼ですね。
作り手として、自分がそれで表現しようとするメディアの力を信じることは当然と言えば当然ですが、面白いのは、"監督一人の自由になるようなものではない→だから映画はいいんだ"というようなレトリックではないかと。(この"映画"への同じ言い方を"アニメ"に対してもときどきしていますよね。)

映画作りというのはまさに“総合芸術”だというのを実感していますし、スタジオワークから生まれるものであって、個から生まれるものではない


「マイナーな感覚」を文芸性と呼んで仲間内だけで誉めあうのではなく、企画者、出資者、絵を描く人、シナリオを書く人、役者、それらすべての「スタッフの総論」として、納得いくものをとことん追求してこそ、「映画というのは“総合芸術”」なのだと。そして、それをまとめ得るものが「時代の総意」だと言っているのでしょうね。

そういうところを忘れている人、思いつかない人たちが映像作品を作れてしまう世の中になっているのは問題です。


「だけど、作品は、個から生まれるもの」だとも言っています。それは認めつつ「総意は受けなくちゃいけないけれども、最終的には個に引き戻すだけの立場を持っていなくちゃいけないし、そういう能力がなくちゃいけない」という矛盾を引き受ける覚悟を持たなければ、作り手の資格はないんだと言っているのでしょう。
同人誌的に、仲間面をして、作家の"個"に安易に寄り添ってくる人たちだけを相手にして満足してしまっては終わりなのだと。

スタジオワークの中で若いスタッフたちは、どうしようもなく富野さんの"個"に引き付けられてくるのでしょうが、それらの"総意"を引き出して、"大衆"のほうへ向ける役割に任じてなお、「やっぱり富野作品だよね」って言われる作品になったとしたら・・・とは。御大、ずいぶん欲深なことを言っているかにも聞こえます。しかしそれでなければ「監督」の資格はないと読めば、かなり厳しい発言だとも言えるでしょう。

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(続く、かも)
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