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「等身大の幸福論」と「戦争論」 

[2006/02/16] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

富野監督のガンダム作品で、主人公が必ず民間人の少年であるのは、「一個人の視点で、戦争を支える論理を照らし返す」事が常に念頭におかれているからだと思う。


zsphereさんに痛いところを衝かれました!
『逆襲のシャア』ラストについての話。さらに続きます・・・。

前にも書いたとおり、私は「狭いアニメ村」の外に富野作品への支持が広がらない理由というものを、おぼつかないなりに考え続けていたところだったので、ほんのちょっとしたことで、もう少し大衆に受け容れられやすくなる可能性を仮定してみたつもりだったのですが、確かにご指摘のような部分はゆるがせにはできない本質的な部分ですね。
どういう部分は変わってもよくて、どこが譲れない部分であるのか、そのあたりについて、さらに皆さんのさまざまな意見を聞かせていただけたら、嬉しいような気がします。

近頃「エンターテイメント」などと口にしている富野御大ですが、大衆ウケを狙っているというストレートな意味ではないようです。大雑把に言えば「厳しく現状を突きつけ、判断はあくまで見た人間に委ねる」というのは変わらない基本スタイルかと思うのですが、「人々が心の奥底でひそかに希求しているはずのもの」を洞察し、それへの理解を最低限でも示そうという姿勢があるような気がしているのです。(これは『新訳Ζ』の話をしている中などで、おぼろげに思ってみたことです。)

現状認識を生ぬるくして、世間の歓心を買おうということは、富野さんという人には出来ないことだと思います。ただ、「どうしてやることも出来なくても、ただ分かってくれている」というだけで、それだけでも十分に報われた思いになるということがあると思うのですね。
「ほんのちょっとした視点の置き換え」ということを表現にするならば、例えばそんな風に、「分かってるよ」と言葉にならぬまでも何かのかたちで相手に通じさせてあげる可能性の有無は、とても大切なことだと思うのです。

等身大の幸福論がない戦争論は危険だと、私は思っています。アムロもそれを感じていたから、シャアを止めたのだと信じる。
「お前ほどの男がなんて器量の小さい!」 だから、やっぱり逆シャアのラストの会話は、あれでいいんじゃないかな。


前半に激しく(激しく!)同意。後半には半分だけ同意します。
前半の部分では「現実にアクシズに潰される人間にとってはどうなのか」ということを、例えば地上のミライさんの描写を繰り返しインサートすることで、語らずして思わせることに成功していると思います。
では後半の残り半分は何かと言えば、シャアについてはおっしゃるとおりとして、「ではアムロは?」という問いです。…アムロも結局クエスをうまくはあしらえなかった。ただ「父親代わりは出来ない」と言うあたり、クエスの願望を洞察はしていた。シャアはそれを自分は理解できていなかったと認めている。ここが二人の差異です。しかしシャアの器量の小ささを責めれるほどアムロは立派だったのか?
結果論では、二人とも子どもをうまく導けなかった駄目な大人。では過程においてどうか?・・・・・・アムロは分かっていたのに、それを通じさせてやることが出来なかった。

等身大の幸福論を戦争論以上に重要視するのなら、そういう解から観客は何を思えばよかったのか?

このあたり、正直、私のような凡人には、「等身大の幸福論」というテーマがフィルムからだけでは分かりませんでした。教えていただいて、「そうか、そういうことか!」と膝は叩きましたが。(zsphereさんの私の膝へのヒット率は物凄く高い・・・。)
私が感知できなかったからといって「監督の視座が定まりきっていなかったのでは」と、疑いを口にするのも傲慢ですが、最近の御大の仕事では、そんな違和感は少ないという印象があります。

これを「等身大の幸福論」と「戦争論」の二項対立という図式で考えれば、両者の間で引き裂かれる価値観のドラマ構造が薄まったと言わねばならないのかもしれません。けれど、果たしてそうなのでしょうか?
思いつきでものを言ってすみませんが、もしかしたら二つの価値観の親和というような、とても難しいところを富野さんは手がけ始めているのではないでしょうかね?
「戦争論」の論理だけで考えれば理解できない言葉を吐くキャラクターたちが多いから、表層的に見ると「馬鹿ばっかり出てくる」と批判されるような気がします。(『ブレンパワード』を見始めている中で、「等身大の幸福論」という言葉を聞いて、そう思ったのですが、どうでしょうか。)

アムロもシャアも、結局は「戦争論」で動いてしまった。それこそが言いたかったのであれば、最後のあの会話だけにその役割を負わせることは、少なくとも私レベルの俗人の理解では無理があったと、そこは残念に思うのですよ。
それだけのことで「狭いアニメ村」の外に富野作品への支持が広がるというわけではないかもしれませんが・・・。

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コメント

> また少し話がずれますが

相手に対する代案はないにも拘らず
立場的にも個人的にもシャアの行動を止めるしかなかったアムロ
辛いだろうなと思いながら観ました
シャアの個と公の立場の矛盾も面白かったし

それだけに念動力の類でアクシズを浮上させるのは止めて欲しかった

あれが人の心の共鳴だとかニュータイプ能力だとか言われても大技すぎて私には納得できないのです

その辺りは他の人はどう感じたのか聞いてみたいです

> おばあさんと赤ちゃん

念動力の類でアクシズの落下を防いだのは僕もロマンに頼りすぎだとは思ったのですが、最後に出てきた、自分で動くことのできないおばあさんや産声を上げたばかりの赤ちゃんまでが核の冬で死ぬ映画だったらもっとイヤな作品になったと思います。個人的にはウソでもリアルをかなぐり捨ててもアクシズが止まってよかったと、僕は思っています。

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