「その股ぐらにロケットパーンチ!」 

[2006/02/14] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

『逆襲のシャア』ラストについての話の続きから・・・。
トップに立つ人間が立派で壮大なことを言う、しかしその人物は現実の等身大の人間としては、対人関係の中ではどうなのか
なるほど。歴代ガンダム(富野ガンダム限定ですよね?)の隠しテーマですか。さすがzsphereさんです!お出でいただいて大変嬉しく思います。
抽象的な「人類」という大きな話題で終わらないからこそ、富野アニメですか~。"なるほど"と納得しつつ、「その双方があるからこそ富野アニメなのではないですか~?」と無謀に混ぜっ返してみたり。
作劇の方法論として、zsphereさんのように明快に解説していただくと、あの割り切れなさ感いっぱいの『逆襲のシャア』終劇のありようもうなづけるものがあります。でもそれは、クリエイターの目指した意図として「そういうことなのか」と理解できるもの。いわば、あくまで作者寄りの視点の話なのですよね。
私は今、「狭いアニメ村」の外へ、富野さんのメッセージが何故届かないのかということを、おぼつかないなりに考え続けているので、こういうところが気になってならないのです。

例えば、『カリオストロの城』のラストのシナリオについて、こういう話を聞いても、近頃の私と来たら、富野さんとの違いということを考えてしまうのです。

カリオストロの城でね、ラストは銭形と追いかけっこをやって笑いのうちに終るでしょう。あれ、よくある手でしょう。だから映画ではやりたくなかったのね。シナリオには書いてないんです。シナリオでは、杉木立・・・杉が立っているまっすぐの並木道でね、ルパンが逃げていくのは同じなんだけれども。銭形も追っかけてくるのは確かなんだけれども、ずっと後ろの方でね。杉木立の間を逃げていく車の中でルパンが口笛なんかを吹いて・・・・要するに”顔で笑って心で泣いて”みたいな、ね、さびしい影が宿るみたいな感じで、車がスッーと消える所で終わりって僕は書いたんだけど


『カリオストロの城』のシナリオ共同執筆者・山崎氏によるシナリオ版ラスト・・・「yasuakiの新批評空間」より)
どちらのエンディングがより良いかというのはひとまずおいて、結果を見れば、観客がより愉快な気持ちで劇場を後にするほうを宮崎さんは選択しているわけですよね。

今、『新訳Ζ』で、同じスキームでもほんのちょっと視点をずらすことで、まったく違う見え方を提示できるという可能性を見せてくれている富野さんならば、『逆襲のシャア』のエンディングはもう少し違って見せてくれるんじゃないかと思ったときに、
立派なことも考えているが、
 等身大の人間でしかない」
  ↓
「等身大の人間でしかないが、
 立派なことも考えることが出来る」

という置き換えはあり得ないのかな、という、
・・・これは私の個人的な、単なる妄想です。(笑)

例えば、例えば、・・・
『∀ガンダム』のクライマックスで、コレン・ナンダーが「その股ぐらにロケットパーンチ!」と叫ぶじゃないですか。まああれは何だろうかというと、いろんな話が出てくると思うんですが、富野さんはあんなところでそんなことが出来る人になった。(あれも気になり続けているんですよねー。)
そして「ターンAだって、時代を拓けるはずだーっ!!」ですよ、彼の末期の言葉は。
何で彼にそんなことが断言できるのかと思うのですが、牛を運んだり、橋になったり、洗濯機にもなったりするガンダムはこれまでにいなかった。
歴代ガンダムが持てなかった「時代を拓く力」は、実はそんなところに秘められているんではないかと。
そんなところから、私の妄想は広がっていくわけなのですが・・・。

(思い切り飛躍した話を、収集できなくてすみません。)

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コメント

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「等身大の人間でしかないが、
 立派なことも考えることが出来る」
 という希望自体は、悪いものではないと思います。それは持ち続けていいと思うのですが。

 ただここでは、この会話が戦争状況の中で行われてる事を失念してはいけません。
 大量の人員を動かして行われる戦争は、当然国家単位の壮大な、大きな目標や意図で行われる。もちろんそうした国家単位での視野は必要で、しかし壮大な目標や論理ばかりが先行した結果、そうした戦争下での一個人の幸福が踏みにじられたという事が過去いくらでもあったわけです。
 富野監督のガンダム作品で、主人公が必ず民間人の少年であるのは、「一個人の視点で、戦争を支える論理を照らし返す」事が常に念頭におかれているからだと思う。

 シャアもまた、「粛清」という大きな、そしてある意味立派な大義を掲げてアクシズを地球に落とそうとしました。地球にい続ける人がいる限り、連邦政府の棄民政策=スペースノイドへの無思慮はなくならない。だから、大枠の論理ではシャアの論法は間違ってない。
 けど、個人の目で、現実にアクシズに潰される人間にとってはどうなのかという話です。
「人の死に乗った世直ししかできないのがシャアだ」と、アムロはシャアをそう評しています。実際、シャアの近辺にいた人は残らず死ぬか不幸になってしまった。
 等身大の幸福論がない戦争論は危険だと、私は思っています。アムロもそれを感じていたから、シャアを止めたのだと信じる。
「お前ほどの男がなんて器量の小さい!」 だから、やっぱり逆シャアのラストの会話は、あれでいいんじゃないかな。

 ∀で希望が示された、というのは私も同意します。
 ディアナ・ソレル。歴代富野ガンダムで唯一肯定された統治者。彼女がなぜガンダムでは例外的に肯定されたかといえば、それはキエル・ハイムとの入れ替わりによって、等身大の庶民の生き方を知ったから。そこから自分の政策を立て直したからだと私は思ってるので。
 ∀ガンダムもだから、たった一人の農家の老婆を救うために戦うのです。「アニス・パワー」という話を見たときの私の感動は、ちょっと言葉にできない。

 まだ書きたい事はあるのだけど、長くなるので今日はこれで。
 長々とすみません。

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