「それをわかるんだよ、アムロ!」 

[2006/02/12] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

先日、『逆襲のシャア』クライマックスでのシャアの「幻の名セリフ?」ということで、ご紹介した「何故これだけのことが出来ながら、人は・・!」 なのですが、

おそらくそのセリフは「そのあたたかさを持った人が地球すら破壊するんだよ!それを解るんだよ。アムロ!」と、シャアが嘆くシーンだと思います。劇場放映時の予告編ではラストのシーンのセリフは入っていなかったので間違いないと思います。


というコメントをいただきました。
(ゆうじさん、はじめまして。「機動戦士Zガンダムを愛する中年親父の日記」というブログ名、いいですね!世代が近くてうれしいので、またときどき読ませていただきます。)
しかしそうですか~、劇場予告版ではありませんでしたか・・・。
劇場予告版やテレビCMは何バージョンか作られることもあるんですけど。違いましたかねー。
たしかにご指摘の場面は、「何故これだけのことが出来ながら、人は・・!」 というセリフがあってもおかしくない場面なのですよね。と言うか、そのほうが普通にしっくりはまると言ってもいいかもしれない。ただ、それは話の流れを一生懸命追ってきた観客の頭の中に、既にあるセリフなので、富野さんという人は、もう一つ先回りをして「しかしこのあたたかさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それをわかるんだよ、アムロ」とシャアに言わせてしまう。
何度見直してみても、ここは本当に微妙な所だと思うのですよね。
富野さんはシャアにもアムロにも一方的に肩入れはしていないと思うし、結論ありきではなくて、この場面ならこの男はこういうセリフを吐く筈だ、というようにキャラクターは形作られている気がします。
そういう意味で、人間の業を背負うと決意していたシャアが「何故これだけのことが出来ながら、…」と、ここで言ってはいけなかったのだと思うのです。そのほうが観客には受け入れられやすかったと思うのですが、シャアはそのぐらいで弱音は吐かない。正しいのはアムロなのかシャアなのか。最後の最後まで観客は悩み、割り切れない思いを抱いたまま、劇場を後にしなきゃならない。
「わかってるよ。だから、世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」とアムロは答えます。お互いにわかっていて、けれどどうしようもなく最後まで結論が食い違う。認識は同じなのに、結論は食い違い、それは等価に観客に投げ与えられたものなのではないかと。
「人は本当はあたたかい」で終わったほうが、多くの人々がスッキリすることは誰の目にも明らかなのに、その人間が地球さえ破壊するということも「わかるんだよ」と言わずにいられないところが、富野さんが宮崎さんとは決定的に違う所ですね。(漫画版『ナウシカ』での宮崎さんの結論は微妙ですが。)

ところで、ここまでは支持できる部分なのですが、そのあとに、まだクエスの話が出てくるのが、どうなんだろうかと悩む所です。
地球と人類の運命を賭けて、互いの志を競っていた二人が、「そういう男にしては、・・・」「貴様ほどの男が・・・」と、二人して、わがままな小娘一人を持て余した情けない話になり、最後にはララァを挟んだ三角関係の話で終わっていってしまう。このスッキリしなさ加減は、先ほどのものと等質なのか異質なのか。
主人公たちは英雄でもなく、偶像やカリスマでもない、つまらない感情のごたごたを普通に併せ持っている人間だ。『ガンダム』という作品は、たしかにそういう性格を持った物語でしたが。
この描写も必要なものだったとしても、見せ方の順番が逆なだけで、最後の印象はまったく変わったはずなのに、富野さんはどうしてこの順で物語を組み立てたのでしょう?
コメントでいただいた「シャアとアムロのファンの私としては、あの作品では余計なキャラがぐじゃぐじゃ余計に引っ掻き回すのは感情的には気分のいいものではありませんでした。」という印象は、私も同じ思いでした。
ただ結論から逆算すると、まさに引っ掻き回されて、ヒーローの座からシャアとアムロを引き摺り下ろすために、あの気分の良くないクエス・パラヤという少女は投入されたキャラクターだったと言えるかもしれません。

そういうことを含めて、「わかるんだよ!」と言われているのかな、と考えてみないでもないですが。なかなか難しいですね。

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『逆襲のシャア』の全セリフは、Touka's Fileさんに収録されています。
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> クェス・パラヤ

「ガンダム・イボルブ」というネット配信でしか見られない影像に出てくる彼女は全く違います。ターンAの後に制作されたせいかクェスとアムロの心の交流を描くショートムービーになっていて、「ハサウェイを撃ってしまったクェスをアムロがたしなめ、その生存と感情を確かめさせて彼女の心を静める」という内容になっています。

過去の作品とのつじつまは合いませんし、それだけを見ても何のことだか全くわかりませんが、恐らくこれが新訳・Zのプロトタイプだと思います。役者や舞台は同じでも、物語は時代に合わせて刷新してみる--その雛形かもしれません。

> ちょっと寄ってみました

 こんばんは。

 逆シャアの最後のアムロとシャアのやりとりですが、私は個人的にあれもアリ、だと思ってたりします。直前の「この温かさをもった人間が~」「だから、世界に人の心の光を~」という会話で、二人の立ち位置の違いを明確にしました。その上で、そういう二人が劇中、実際に人とどう接したかのおさらいとして、クェスにまつわるやりとりがあったと思うのです。アムロはクェスが父親を欲してると見抜いて、「オレは機械じゃない」と突っぱねた。一方のシャアは、「クェスを機械として扱」って、つまり兵器として扱ってしまった。
 人の業を背負おうとしたシャアが、現実の人間関係では人とそう接してしまっていた、という指摘をしたのだと思います。これがガンダムの言わば隠れた歴代のテーマで、「トップに立つ人間が立派で壮大なことを言う、しかしその人物は現実の等身大の人間としては、対人関係の中ではどうなのか」という批判を常に持っていると思うのです。
 だから、抽象的な「人類」という大きな話題で終わらなかったからこそ、富野アニメの面目躍如だと私は思ってます。

長文失礼。

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