何故か『逆襲のシャア』の話題にしてしまいますが、 

[2006/02/08] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

特定の趣味嗜好が一世を風靡することそのものが貧しいのではなく、その趣味の味わいも分からずに追従する作り手・受け手がもし多いのであるならば、それこそが『貧しさ』だと言いたかったつもりです。


というお話を昨日書いたのですが、

「社会の貧しさ」とあえて言うまでもなく、いつの世でも同じ、ではないのでしょうか? そうでない社会が今までどこかにあったとしたら、これがそうだと示していただきたいと。


と出人さんから痛撃をいただきました。(笑)

その貧しさを絶望的なものだと思うのなら・・・世の中はどうでも、自分だけは自分が美味いと思うものを追求すればよろしい?(社会がどうあれ、関係はない。)→作り手が明確にそうした立場であるならば、受け手も「自分の味覚の趣味に合うかどうか」以上のことを、そこに追求してみても不毛です。


とも私は書きました。この、相変わらずの歯切れの悪さは、「絶望しちゃいない!」と言い切れる自信が、つまり私にもないということです。
豊かさは個人のうちにはあっても「社会」になぞ、はじめから存在しないのかもしれないですからね。

「絶望しちゃいない!」は『逆襲のシャア』クライマックスでのアムロの名セリフですが、実のところは愚民どもの頭上にアクシズを落っことして粛清してやりたいと思うシャアの気持ちのほうが、はるかに共感しやすいものです。(あるいはイデオンソードで惑星真っ二つとか。いっそガンドロワと対決してイデ発動とか。夢想したものです。)
だから、私にとって衝撃だったのは、愚民を粛清してしまえと言うシャアのほうではなく、むしろ何の根拠もなしに「絶望しちゃいない!」と言い放ったアムロのほうだったと思うのですね。
富野由悠季という作家のことを考えていると、どう考えてもこの人はドンキホーテに思えてくるのですが、・・・それなのに気になってならないのは、つまりそういうことなのかもしれません。

"今ではたいしたことはないが、この時代にここまでしたのはすごい、後から思えばすごかった、というもの"は、もちろん多いと思うのですね。時代が変われば社会が変わり、求められるものも変わりますから。
"「人気がある」とか「ブームを起こす」ものには、それなりの良さがあるはず"というほうが、断言するには自信が持てません。現代という時代が求めているものが、どこかにあるということなのでしょうかね。
それでは時代を超える普遍的な価値というようなものが、どこかにあるのか?・・・正直に白状すれば、さらに自信が持てません。「表現」をしている(志している)人たちは今、そういうことについてどんなふうに考えているのでしょうか。そんなこと何も考えていない人も、案外少なくないような気もしてしまいます。
だからといってドンキホーテに肩入れすることが絶対に正しいかと言えば、それも違うように思ってはいるのですけどね。ただ、このドンキホーテは時代という逆らいがたいものに向かっていこうとしているという気がしてならないので、関心を持たずにはいられないのです。

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コメント

> 絶望禁止

>「社会の貧しさ」とあえて言うまでもなく、いつの世でも同じ、ではないのでしょうか? そうでない社会が今までどこかにあったとしたら、これがそうだと示していただきたいと。

えー、現代ではバリ島や狩猟採集で暮らしている民族にまでいわゆる先進国の「貧しさ」を押し付けて粛清するのは間違いなく罪深いエゴだと思います。「逆襲のシャア」から数えて約20年足らずの間に縄文時代や狩猟採集民族の研究が進んできました。地球を汚すことしかしない人類と一緒くたにして粛清するのはやはり誤った考えだと僕は思います。

模型屋さんで観た逆シャアのクライマックスで、アクシズを押し戻すアムロの手伝いを敵味方のモビルスーツが共にはじめるというシーンがあったのですが、そのときシャアは「何故これだけのことが出来ながら、人は・・!」と言ったのです。

確かに貧しくない世界は見えにくいかもしれませんが、いつの世にも確実にあると思っています。

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