「社会の貧しさ」というのは 

[2006/02/07] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

「萌え」や「やおい」をガンダムに求める人たちの存在という現象は、マニュアル化されたひとつのパターンでしか、ものを見ようとしない、という言い方だと違いますかね?
そういう人が間違っているとは現状で断言しかねますが、いろいろな角度から考えてみる面白さを知らないとは思います。0か1かのデジタル現象なのか、勝ち組負け組という価値観しかない競争社会の産物なのか、背景はいろいろ言うことができるのでは。

「芸能」が、お上のお抱えになると形式主義化した「伝統芸能」になってしまうことを考えると、それも一定の価値観のものさしを当てはめようとする行為なのですよね。

情緒、ニュアンス、真の「娯楽」といったこと。多様な味覚(面白さ)が入り混じっているものが、私は本当に「美味い」と思うのですが、激辛・激渋・激甘・・・。流行とは極端ですね。一言で言えば『貧しい』のか?
 ↓
多様な味覚の並存を一概に貧しいとは言えませんね。激辛を愛すものは、激辛の中の微妙な旨みを味わい分けていれば、それはそれで豊かさなのかもしれない。

・旨みも分からずに、
 「辛ければ売れるんだから、辛いほどいいんだろう?」
 という人が増えるのが、作り手側の問題。
・少なくとも、「売れているんだから美味いはずだ」
 と受け止めてしまうのなら、それは受け手側の問題。
 (「行列の出来る店は美味い」の論理)

そんな作り手や受け手が多いことをこそ、「社会の貧しさ」として考えなければならないのではないでしょうか。
その貧しさを絶望的なものだと思うのなら・・・世の中はどうでも、自分だけは自分が美味いと思うものを追求すればよろしい?(社会がどうあれ、関係はない。)→作り手が明確にそうした立場であるならば、受け手も「自分の味覚の趣味に合うかどうか」以上のことを、そこに追求してみても不毛です。

ただ、「絶望的ではない」と信じ、広く社会全体に向けて「表現」している作り手が少数でもまだいるとするならば、彼の言うことには、同じく「絶望しちゃいない!」と言える人たちは耳を傾ける価値はあるのではないでしょうか。


上記長文の引用は、某所での対話の中で、私が長々と書いてしまったものです。あえて編集せずに、引用で引っ張ってきてみました。
末尾で「彼」と私が呼んでいるのは、言うまでもなく富野御大のことを頭に浮かべながら記していたわけですが。

特定の趣味嗜好が一世を風靡することそのものが貧しいのではなく、その趣味の味わいも分からずに追従する作り手・受け手がもし多いのであるならば、それこそが『貧しさ』だと言いたかったつもりです。
留意願いたいのは、この一見当たり前な批判は、例えば「激甘」に対してだけ向けられるものではなく、「激辛」や「激渋」にも等しく当てはめられるべきものだということです。
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コメント

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「社会の貧しさ」とあえて言うまでもなく、いつの世でも同じ、ではないのでしょうか? そうでない社会が今までどこかにあったとしたら、これがそうだと示していただきたいと。

また、「人気がある」とか「ブームを起こす」ものには、それなりの良さがあるはずなんですよね。それが、たまたまタイミングよくってこともある。同じものでもダメなときもあるのでしょう。

今ではたいしたことはないが、この時代にここまでしたのはすごい、後から思えばすごかった、というものもいくらでもありますけどね。

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